平日昼間の奥さまの憂鬱
その日は竣工から8年が過ぎた戸建住宅で、ある家具ブランドのカタログに使用する写真を撮影していた。大手鉄鋼メーカー勤務のご主人、専業主婦の奥さま、高校生の娘さんという三人家族のお宅である。
リビングだけでたっぷり20畳くらいはあった。長い革張りソファの正面には75インチの大型液晶テレビ。南側の窓からは風にそよぐシマトネリコの葉が見える。
平日昼間の撮影である。ご対応いただいたのは奥さまだけだった。
「テーブルでもソファでも、好きなように動かして好きなように撮影してください」
からっとした調子で気風がいい。
カメラマンのセッティングを待つあいだ、台所仕事の手を休めた奥さまと他愛もない世間話をする。事例写真の撮影はこの時間がいつも楽しい。このような機会でもなければ一生接点がなさそうな人たちの日常に少しだけ触れられるからである。
「とても立派なお宅ですけど、住み心地はいかがですか?」
私がお決まりの質問を投げかけると、奥さまは意外にも小さな愚痴をこぼし始めた。
「べつに悪くはないですけど……、最近、家にいるのはほとんど私だけなんですよ。きのうも娘がいきなりメールを寄こして、マックで食べて帰るから晩ごはんはいらないって。主人はいつも帰りが遅いですし……」
「その代わり、休日はみなさんうちでのんびりとか?」
「いえいえ、休日は休日でみんなバラバラに出かけていきます。家族で過ごす時間はあまりないかもしれませんね」
「ところで、あれくらい大きなテレビだと何を観ても迫力があるでしょう?」
「でも、そこのソファに座ってテレビを観るのは私とネコだけなんです」
「いま思えば、リビングはこんなに広くしなくてもよかったと思います?」
そう聞こうかどうしようか逡巡して、やっぱりやめておいた。
作業をする場所
リビングを「こんなに広くしなくてもよかった」と後悔している人は意外と多い。私が「家づくりで後悔したことは?」とうかがうと、リビングの不満を述べる人が少なからずいる。「こんなに広くしなくても」というのは、○△㎡という具体的な数字で表されるものではない。「ほかのスペースを削ってまでも」という相対的なバランスの問題である。多くは、「リビングをもう少し削って収納スペースを広く取ったほうが、もっと住み心地の良い家になっただろうに……」という反省である。これはいろいろな人から聞いた。
ただ、この手の"失敗"は予防が難しい。
「リビングはのんびりとくつろげる空間にしたいです」
建築家との打ち合わせの席上、ほとんどの施主がリビングについてこのように要望するからである。そして、のんびりくつろぐためにある程度の広さを確保してほしいと訴える。建築家のなかには、「そんなに広くしないでも」と自制をうながす人もいるが、広いリビングでのんびりと過ごすのが夢だった人たちにこの手の説得はまず実を結ばない。かくしてリビングは、計画の初期からその家最大の面積を誇る一大空間として構想され、そのまま竣工の日を迎える。
かれこれ10年以上前の話。
住宅建築に関して数々の受賞歴を誇る、当時60代の建築家のもとへヒアリングにうかがったことがある。どのような用件でおじゃましたのかは忘れてしまったが、その建築家に次のようなことを言われてハッとしたのはいまでもよく覚えている。彼はフレンドリーな口調で私にこう話した。
「みんな、家に居るときくらいはのんびりくつろぎたいと言うじゃない? でも、家でのんびりくつろいでいる人なんて、現実にはほとんどいないからね」
私が虚を突かれたような思いでいると、彼は続けざまに住宅というものをこのように定義してみせた。
「住宅というのはのんびりくつろぐ場所ではありません。あれこれと作業をする場所なんです」
なるほどそのとおりだ。これこそ住宅の本質を言いあてた金言だとすっかりうれしくなって、私は手元のノートに大切に書き留めた。
言われてみれば、私たちが家の中でしていることは、朝起きてから夜寝るまで大なり小なり作業の連続である。朝起きました。顔を洗いました。食事の用意をしました。食べました。歯を磨きました。着替えました。出かけました……。
リビングのソファにゆっくりと腰を下ろし、
〈あぁ、自分はいま、のんびりとくつろいでいるなぁ〉
とゆるんでいる時間は、朝も夜も休日の午後も、現実にはほとんどない。

のんびりは難しい
思うに、家のなかでのんびりするというのは、じつはかなり難易度の高い団体競技である。そもそも、のんびりは一人で出来るものではない。家族全員が一致団結のもと同時多発的に遂行しなければ美しく成就させることが難しい行為なのである。仮に、誰か一人だけソファに座ってテレビを見ていたとしよう。すると、その「不正行為」はすぐさまほかの家族に摘発され、たちまちのんびりの独占を非難する怒号が飛んでくる。
「ぼけーっとテレビ見てるひまがあるなら、少しは手伝ったらどうなの!」
キッチンの奥からお父さん(あるいは子供)に向かって発せられる大声は、のんびりの民主化を求めるシュプレヒコールだ。よほど心臓の強い人でないかぎりこれを無視するという選択肢は与えられない。
他方、私たちはのんびりを本当に心の底から求めているのかと問われると、それはそれでなんだか怪しい。
最近、自宅を新築したという知人がいる。
「休日は自宅でのんびりですか?」
そうたずねると、彼は照れくさそうに笑いながら首を横に振った。
「ひまな時間ができるとなんだか不安になるんですよね。その時間に耐えられないというか持てあますというか。たまには公園の周りでも走ってみようかと思ったりするのですが、結局はたまった書類を片づけたりして何かしら仕事を見つけてやってますよ。ま、そういう性分なのだろうとあきらめています」
私にも似たようなところがある。のんびりは案外難しいのである。
おそらく世の中には、家にいても、時間があっても、のんびりと過ごせない人たちがたくさんいる。きっとそうにちがいない――という事実にいち早く気づいたのが、シアトル発祥のコーヒーチェーン・スターバックスであった。彼らが自分たちの店を「サードプレイス」と称したのはご存じのとおりだ。会社や学校はもちろんのこと、自宅でものんびりできないのなら、せめて私たちのお店でのんびりくつろいではいかがですか、という提案である。
たしかにそのお誘いはストンと腹に落ちた。現代人のストレスを緩和する第三の場として、サードプレイスというコンセプトは開店当初から日本でもこころよく迎えられたように思う。しかし、スターバックスとわれわれの蜜月は期待されたほど長くはつづかなかった。いまはどの店舗を訪ねても、入口付近に立てかけられている黒板にはビジネスライクな注意書きが並んでいる。
「長時間の学習、作業はお断りいたします」
"働き者"の日本人は、せっかくの提案も短期間で手際よく骨抜きにしてしまった。私たちは第三の場においても、のんびりよりせかせか作業するほうを選んだのである。