ダブル・ミーニングを仕込む
高野さんは大学で建築を学ばれたが、卒業すると建築からいったん距離を置き造形(彫刻)の世界に打ち込まれた。そんなちょっと変わった経歴が、利便性ばかりを追求しがちな昨今の間取りにことさら警鐘を鳴らすスタイルをつくり上げた――と勝手に想像していたのだが、あらためて高野さんの設計手法をうかがっていると、豊かな住まいを手に入れる近道は案外シンプルな方法論のなかにあるような気がしてきた。
具体的には「専門性の排除」である。
「たとえば廊下も、A地点からB地点に移動するだけの専用通路としてつくると全然面白くなりません。そこに別の役割を持たせてあげると、とたんに豊かさが広がりはじめます。廊下の壁に絵画や写真を飾ってギャラリーにする、少し幅を広げて本棚を置いてみる、廊下の途中に庭を見わたせる窓をつけてあげる、その窓辺に座れるような台をつくってあげる……」
豊かさをたたえた住まいとは、つぶさに観察してみれば、住まい全体が意味の多重性に覆われていることに気づくと高野さんは指摘する。
「僕の設計はすべてそうなんです。玄関だからといって靴を脱ぎ履きするだけの場所にはしません、ダイニングだからといって食事のためだけの場所にはしません。敷地が狭く、門扉から玄関まですぐにたどり着いてしまうようなら、あえてアプローチを迂回させ、玄関に着くまでのあいだに、庭の緑に目をやったり、敷石を踏みしめたりする時間をもたせてあげます。住まいは『目的を達成すること』よりも、『それ以外のこと』ができる余地をどれだけもっているかが大切なんです。本来の用途以外の用途をもち得た空間は、その瞬間、機能を超えます。機能だけではない場所になるから、その場所に魅力が生まれるのです」
ある仕事でお世話になったハウスメーカーの元役員は、65歳を過ぎたいま「美しいインテリアデザインとは何か?」という美意識の研究に真正面から取り組まれている。
それまでは一貫して住宅におけるバリアフリー設計の研究一筋で、国のガイドラインづくりにたずさわったほどのスペシャリストだった。専門性、機能性一辺倒の設計者人生である。それが一線を退いたいま、あえて正反対の道を歩み始めることになった。
「私は何十年も住まいの機能性だけを考えてきました。でも、あるとき、そればかり考えていても住まいはちっとも良くならないと気づいたんです。ほら、名を成した実業家が美術品を買いあさって私設の美術館をつくったりするでしょう。あれと同じです。実業をとことん突きつめていくと、必ずその対極にある美の世界に引き寄せられていく。人間というのはそういうふうにできているのだなと思いましたね」
毎日があわただしく過ぎていく子育て世代にとって、「3歩なんて遠すぎる、1歩じゃなきゃダメ」という切実さは私にもよく分かる。廊下の突き当たりに小さな窓が開いていたとしても、そこから外の景色をじっくり眺める暇などないかもしれない。
短期的な損得勘定でいえば、機能的な間取り、効率的な動線はとても有効な提案であり、損失も少ない。けれど、子供が巣立ち、再び夫婦二人だけの生活に戻ったら、あらためて機能的でありながらも情緒あふれる豊かさをたたえた住まいについて考えてみてはいかがだろうか。そのころにはおそらく、本当の豊かさとは何かを考える余裕もできているはずだ。
『高野保光の住宅設計』の本文中に、私がとても好きな一節がある。「完璧な家は、幸せな家か?」という小見出しのあとに、このようなエピソードがつづられている。
設計事務所を開設した初期の頃、[中略]建て主の要望と思いを全面的に採り入れ、まさに「希望どおりの住まいが実現した」と思われた家がありました。しかし建て主は、あろうことか「自分の思ったようにつくってもらって何も言うことはないが、どうもピンとこない」と言うのです。建て主の要望に沿って忠実に設計した家だったにもかかわらず、どうしてそのように感じられたのでしょうか。
いま思えば、それは、設計初期の段階から建て主が理解しイメージできる範囲内で考えられた家だったこと、早くから欠点をなくすことに全力を挙げた設計だったこと、設計者側の提案を建て主に十分伝えきれなかったこと、などが原因ではなかったかと分析しています。それ以来、僕は建て主が本当にほしい住まいは、建て主が思い描く世界にはなく、さらにその先に設計側が提案する中にあるのだろうと考えるようになりました。
住宅の設計を第三者に依頼する意味は、ここにあるような気がしている。
