筑摩選書

「ろう者」と「外国人」の共通項
『ろうと手話――やさしい日本語がひらく未来』はじめに

「手話って、日本語を手で表現してるんですか?」「ろう者なら、みんな手話を使えるんですよね」
これはどちらも誤解です。手話は日本語とは別の言語であり、ろう教育においては長く手話が禁じられてきました。
聞こえる人にはわかりにくい、ろう者と手話の歴史や現状を伝える筑摩選書『ろうと手話――やさしい日本語がひらく未来』の「はじめに」を公開します。

日本語非母語話者の気持ちと、伝わる話し方を知る「日本語教師」

 ろう者にしろ外国人にしろ、社会の無理解の原因は「言葉が伝わらない」ことであるため、誰かが間に立って解消する必要があります。コミュニケーションを成立させるために直接的な役割を担うのは「通訳者」ですが、社会全体に理解を促進するには別の取り組みが必要です。
 外国人については、先に述べた政府の外国人材獲得推進の流れの中で、外国人への日本語教育の保障に加え、受け入れる社会・地域側が日本語を調整してコミュニケーションを成立させる「やさしい日本語」が注目されるようになりました。そこで活躍が期待されているのが、外国人に日本語を教えることができ、さらに外国人がわかりやすい形に日本語を調整するスキルもある「日本語教師」です。
 従来の日本語教師は日本語学校などで留学生に日本語を教えることが仕事の中心であり、地域における外国人の日本語教育は専門的なスキルがあまりない地域ボランティアに支えられてきたのが実情でした。しかし、やさしい日本語の必要性が認識されるようになると、日本語教師の基本スキルである「ティーチャートーク(日本語初学者にも伝わりやすい話し方)」が注目されるようになりました。日本語教師は外国人がどのような教科書や方法で日本語を学んでいるかに詳しく、相手の日本語レベルを把握し、相手に合わせた話し方ができます。また外国人の日本語の間違いに寛容な態度をとることにも慣れています。このように、やさしい日本語への書き換えやコミュニケーションを学びたい日本人にとって日本語教師は手本となる存在になり、全国各地で開催されている公務員や地域住民向けのやさしい日本語研修会に、日本語教師が講師として招かれるようになりました。日本語教師の活躍の場は対外国人から対日本人へも広がりました。

ろう者に対する日本語教師とやさしい日本語の可能性

 一方、ろう者への理解について、このような大きな社会的なうねりはまだ出てきていません。
 私は多言語学習やコンピュータ言語など、言語オタクを自認するほど言語に興味をもっています。やさしい日本語の社会普及活動を進めていくなかで、偶然TBSラジオの番組で「手話はひとつの言語である」という特集を聞きました。ゲストの斉藤道雄氏は日本で初めて「日本手話」で教科を教える特別支援学校「明晴学園(めいせいがくえん)」の理事長でした。
 この番組で私は「手話は言語である」「日本語を第二言語として学ぶろう者がいる」ということをはじめて知り、自分の無知に大変な衝撃を受けました。そして、ろう者の問題は第二言語として日本語を教える日本語教育とストレートに関係することだと気がつきました。覚醒した、といっても過言ではない経験でした。すぐに斉藤氏の著書『手話を生きる』(みすず書房)を購入し、何度も読み返し、仲間の日本語教師たちにも推薦していきました。
 それからたくさんの書籍・論文を読みあさり、学会・セミナーなどにも出席して勉強しました。そして2018(平成30)年8月の東京都港区職員向けやさしい日本語研修会での最後の10分で、初めてろう者の置かれた現状を説明し、「外国人に対して寛容な気持ちを持てるなら、その気持ちをぜひろう者にも向けてほしい」という言葉で締め括りました。これに対し事後アンケートで「はじめて知った」「ろう者への見方が変わった」など高い評価をいただき、やさしい日本語の研修という場でろう者の事情を伝えることは極めて意義深いと確信しました。それ以降すべての講演は誰にも頼まれずろう者の話で締め括り、やさしい日本語への関心の高まりを利用して、少しでもろう者の事情の理解を広め、偏見や差別をなくしたいと活動してきました。
 ろう児への日本語教育に、日本語を母語としない子どもに向けたバイリンガル教育の手法を応用する研究や実践はすでにありますが、今後本書で述べていくような事情でなかなか進んでいません。
 また、音声日本語の獲得のためにろう学校で手話が禁止されていた時代が長く、大人になってから手話を学んだろう者も多数います。さらには、ろう学校で学んだ人と一般の学校で学んだ人の間や、手話を母語とする人とそうでない人の間では、自認するアイデンティティが違うことがあるなど、ろう児・ろう者の事情については当事者ではないものにとって理解が難しい点が多々あります。結果的に、ろう教育関係者間でもバイリンガル教育の導入に関する考え方は定まっていません。
 しかしながら、やさしい日本語という考え方は、外国人だけでなく、ろう者や知的障害者など情報アクセスやコミュニケーションに困難を抱えている人にも有効であると、学術的にも政策的にも認められるようになりました。今後やさしい日本語の推進、多文化共生の実現に携わる人たちは、このやさしい日本語の広がりも含めて活動していくことになります。そして特にろう・聴覚障害に関しては、日本語教育の知識を大いに生かすことができるのです。

本書で伝えたいこと

 本書はまず、以下に関する事実関係を紹介します。

●障害児教育の流れを知る
●聴覚障害の種類について知る
●手話禁止の歴史を知る
●ろう教育と手話に関する議論について知る

 その後、私たち日本語教師、そしてやさしい日本語の推進に携わる者が彼らの抱える問題にどのように向き合うべきか提案します。最後には、僭越ではありますが、現在のろう関係者の直面している課題に対する、私なりの解決方法を申し上げます。
 読者の方には、ろう・聴覚障害に関わるさまざまなことを体系的に知り、これまで当事者がどんな思いで聞こえる人中心の社会で生きてきたか、現在においても何が問題なのかを十分理解してもらいたいと思います。その上で、やさしい日本語の追い風を利用して、ろう者に関する社会啓発活動に理解と協力をいただきたいと思っています。
 また、このような書籍が出ることで、当事者団体やろう教育関係者にもやさしい日本語の動きが追い風であることが認識され、やさしい日本語の旗のもとに、外国人向けの運動と連携して、より大きな意味での多文化共生社会づくりが推進されることになれば、これ以上の喜びはありません。

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