ちくま文庫

第一章〈地球〉

オラフ・ステープルドン『スターメイカー』ためし読み

オラフ・ステープルドン『スターメイカー』(浜口稔訳)より、第一章〈地球〉をためし読みとして公開します。アーサー・C・クラークやスタニスワフ・レム、J・L・ボルヘスをはじめ多くの作家に絶賛され、多方面に影響を与えてきた伝説の作品が、このたび全面改訳のうえ、ちくま文庫となりました。ぜひお読みください。

2 星々と地球

 頭上の薄闇が消えていた。空一面に星が切れ目なく群がっていた。惑星が二つ、またたくことなく光っていた。群がる星座のなかに際立つものがあった。オリオン座の四角い肩と足、ベルトと剣、北斗七星、カシオペア座のWの描線、寄り添うようにつどっているプレイアデス星団、どれもこれもが暗黒の空にしかるべく配列されていた。おぼろな光輪である天の川が天空をはるばると横切っていた。
 想像力により、見るだけでは得がたい視界が補われた。眼下には、透明になった惑星、ヒースや堅い岩、絶滅種の埋葬された墓所を透かし見、溶融した玄武岩の流体を突っ切り、さらに進んで地球の鉄の核へと行き着いたように思った。そのままやはり下へと進み続け、南半球の地層を抜けて大洋と陸地に出て、ゴムの樹の根や逆さに立つオーストラリア人の足元を過ぎ、昼間の日差しが強い紺碧の天幕を抜けて、太陽と星々が連れ添う永遠の夜へと出ていった。目がくらむほどはるか下の方で、湖の深みに棲む魚のように星座が群れていた。天空の二つの丸屋根は融合して虚ろな一球体となったが、そこは星が群れ、まばゆい太陽の付近ですら黒かった。若い月は光かがやく針金のような弧となっていた。天の川が完全な輪を描いて宇宙を取り巻いていた。
 ふしぎな眩暈を覚えながら、わたしは心を落ち着けようと、わが家の灯がともっている小さな窓に目をやった。家のものはやはりなかにいた。そして郊外の全景、丘という丘。しかし星たちのかがやきはすべてを貫いていた。地球のあらゆるものが、ガラスか、あるいはもっと透明で、さらに希薄なガラス状のなにかに変わったかのようだった。幽かに教会の時計が零時を鳴らした。それはぼんやりと遠のいていくように、最初の時報を告げた。
 想像力は今や刺激を受けて、新しい謎めいた様相の知覚となっていた。星たちを見まわすと、天界はもはや宝石を散らした天井や床などではなく、恒星群がひらめく深淵の、さらなる深淵として映った。そして天空の見慣れた大いなる光点の数々は、そのほとんどがごく近しい存在として浮かび出たのであるが、なかには実際には遠くにありながら強力な光を放っている星があり、その一方で、淡く光りながら近くにあるがゆえに見えている星もあった。どこを向いても、遠くと近くの中間に星たちが群れをなして流れひしめいていた。しかしこれらの星たちも、今や近くに見えていた。天の川が及び難い彼方へと退いていたからである。そしてその近くの虚空を透かして、光る靄の眺望のその向こうの眺望と、星状集団の群れから成る奥深い遠景が現われたのだった。
 天命によりわたしに定められた宇宙は、光かがやく空洞ではなく、渦を巻く星の奔流として知覚された。いや! それどころではなかった。星と星のあいだの暗黒を覗いてみると、ほかにも似たような渦というか、そのような銀河が、単なる光の染みや点として、深淵のさらなる深淵である空洞にまばらに撒かれているのが見えたが、はるか遠くにあるために、想像力の目をもってしても、コスモスの、つまりは諸銀河をそっくり包み込む銀河に限界があるのかが分からなかった。今や宇宙は、淡い雪片の一ひらずつが宇宙として浮遊する空洞のように思われた。
 諸宇宙の大群のなかでもっとも希薄で最果ての宇宙に視線を集めると、超高性能の望遠鏡のような想像力により、それは恒星の集落のように思われた。それらの太陽群の一つの近くに一個の惑星が浮かび、その惑星の暗い側の半球に丘があり、その丘にわたしがいた。それもそのはず、コスモスと呼ばれる、この限界のない有限界にあっては、光は無限に直進するのではなく、その源に戻ってしまうのだと、現代の天文学者たちが断言しているからである。そのときわたしは、自らのヴィジョンが、想像力の光ではなく物理的な光に頼っていたのであれば、コスモスを「一巡」して戻ってくる光は、わたし自身ではなく、〈地球〉が形成される前、おそらくは〈太陽〉すら形成されていない、はるか以前に過去のものとなったできごとを映し出していた可能性があることを思い出した。

 しかし今わたしは、このような巨大な広がりをふたたび遠ざけ、カーテンが引かれたわが家の窓を、ふたたび探し求めたのである。わが家は星に射貫かれてはいても、わたしにとってはやはり銀河のなによりも現実味のあるものだった。ところが、わが家は姿を消していた。郊外全体も、丘も、さらには海までもが。わたしが腰をおろしていた地面はなくなっていた。はるか眼下には、代わりに実体のない闇が横たわっていた。そしてわたしは、どうやら肉体を離脱していた。自らの肉体を見ることも触ることもできなかったからである。手足を動かそうとしても、なにも起こらなかった。手足はなくなっていた。馴染んでいた内からの身体感覚と、朝からわたしの気を滅入らせていた頭痛は、ぼんやりとした軽快感と陽気さと活発さに席をゆずっていた。
 わたしを襲った変化を充分に悟ったとき、わたしは自分が死んで、まったく思いもよらない新たな存在へと変わりつつあるのではないかと思った。はじめのうち、そんな平凡な可能性がわたしを憤慨させた。それから、もしほんとうに死んだのであれば、わたしは共同体を形成する特定の私的原子に戻ることはできないと分かって、突然の狼狽に襲われた。わが身に降りかかった災禍のすさまじさに衝撃を受けた。しかし間もなくすると、結局わたしはおそらく死んではおらず、いつでも目覚めることのできる一種の昏睡状態にあるのだと考えて自らを慰めた。こうして、このふしぎな変化にあまり動転せぬよう決意したのである。科学的な好奇心をもって、わたしはこの身に起こるすべてを観察するつもりであった。

 地面と入れ替っていた薄闇が縮小し濃くなっていくのが分かった。下方にあった星々は、もはや見えなくなっていた。まもなく眼下の地球は、巨大な円卓、それも星たちに囲まれた暗黒の大円盤となっていった。どうやらわたしは想像を絶する速度で故郷の惑星から飛び去っていた。最前までの想像力で下方の天界に見えていた太陽は、ふたたび物理的に地球にさえぎられた。今やわたしは、地上から数百マイルもの高所にいたに違いないが、酸素と大気圧がなくても問題なかった。思考の募りゆく陽気さと心地よい活気を感じただけだった。星たちの異常なかがやきが、わたしを昂らせた。薄暗かった空気が退いたからか、あるいは昂進した感性のゆえか、あるいはその両方からか、空は常ならぬ様相を帯びていたのである。あらゆる星が一段と大きく燃え盛っていた。天界はかがやきにつつまれていた。大きな星たちは遠くの車のヘッドライトのようだった。〈天の川〉はもはや暗闇によって明るさを減じることなく、円を描くような光の粒子の川となっていた。
 ほどなく、〈惑星〉の東の縁に沿って、今やわたしのはるか眼下に、淡くあからむ光の線が現われた。わたしが上昇を続けると、それはそこかしことオレンジや赤へと色づいてきた。明らかにわたしは、上昇しながら東の方へと飛翔し、昼の領域へと向かっていた。すぐに太陽が視界に現われ、明け方の巨大な三日月を、そのかがやきのうちに呑み込んだ。しかしわたしがさらに速度を上げると、太陽と惑星が離れていくように見え、それと同時に明け方の光の糸が濃くなり、太陽光の靄の広がりへと変わっていった。これは、みるみる満ちていく月のように大きくなり、惑星の半分が光に染まった。夜と昼のはざまに、あたたかい色合いの、亜大陸のように大きな影の帯が、今や明け方の領域を際立たせていた。わたしが上昇を続け東方へと飛行するにつれて陸地は西へと移動し、ついにわたしは真昼の太平洋の上空にいたのだった。
 地球は今や、満月の数百倍はある巨大なまばゆい球体となっていた。その中心部の目がくらまんばかりの光の領域は、海洋に映った太陽の影であった。地球の輪郭は、不鮮明な幅をもつ光の靄となって、まわりの宇宙の暗黒へと溶けていた。わたしの方に幾分かたむいていた北半球の多くは、雪と雲に覆われていた。わたしは日本と中国の輪郭を部分的に辿ることができた。そこではおぼろにかすむ茶色と緑の陸地が、ぼんやりとした海洋の青や灰色と入り組んだ海岸線を形成していた。空気がより清浄な赤道付近へ向かうと、海の色は濃くなった。明るい雲の小さな渦は、おそらくは台風(ハリケーン)の上層部であった。フィリピン諸島とニューギニアが鮮明な地図のように映えていた。オーストラリアは南の縁の方へとかすんでいった。
 目の前の光景はふしぎな動きを見せていた。私的な不安は驚きと感嘆のあまり消えてしまったが、それはわが惑星の純然たる美しさに驚いていたからである。地球はスパンコール付きの黒檀に嵌め込まれた大ぶりの真珠であった。真珠の光沢を放つオパールだった。いやそれは、どんな宝石よりも抜きん出て美しかった。色合いは、さらに繊細で、よりいっそう霊妙であった。生きている物の繊細さとかがやき、その複雑さと調和とを示していた。ふしぎなことに、遠く離れて見ると、かつてないほどに、生気にあふれた〈地球〉の活気に満ちた姿が、生きながら半睡状態となり、朦朧となりながらも目覚めようと切望する生き物のように感じられたのだった。
 考えてみれば、この天界の生きた宝石の、目に映る様相はなに一つとして、そこに人間が棲息することを証してはいなかった。目には映らなくとも、わたしには主要な人口密集地のいくつかが見えていた。眼下には、煤煙で空を黒く染めている巨大な工業地帯が横たわっていた。ところが、このひしめく生命も、いかにも人間的な壮大な事業も、いずれにせよこの惑星の様相には、なんの痕跡もしるしてはいなかったのだ。このような高処から見ると、〈地球〉は人類が誕生する以前となにも変わっていないように思われた。天使、あるいは別の惑星からの探索者が訪れたとしても、この穏やかな球体が、小さな害虫、それも世界を支配し、自らをさいなむ、もとは天使のようであった獣であふれていようとは、思いも寄らなかったことだろう。

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