ちくまプリマー新書

ひとりひとりが「エコな暮らし」をする意味はあるのか?…「環境倫理学」ではこう考える
『はじめて学ぶ環境倫理』より本文を一部公開

環境問題を解決するには新しい倫理観、すなわち「環境倫理」が求められている――では、環境倫理とはいったいなんなのか? 身近な環境の改変から地球の未来に関わる問題まで、考えるヒントが満載の『はじめて学ぶ環境倫理』(ちくまプリマー新書)の第一章を一部公開します。

環境倫理学の三つの基本主張

「環境倫理は個人倫理ではなく社会倫理である」という認識は、日本の倫理学界では正統な認識です。一九九〇年前後にアメリカから日本に「環境倫理学」という学問分野を導入した、哲学者・倫理学者の加藤尚武は、一九九一年に出した『環境倫理学のすすめ』以来、このことを繰り返し示唆しています。ちなみにこの本の出版によって、日本のなかで環境倫理という言葉が一般化しました。逆に言えば、一九九一年まで、日本に環境倫理という言葉はほとんど流通していなかったのです。

 それから加藤はたくさんの本を書き、環境倫理学の議論を広めましたが、そのなかで加藤は環境倫理学を、「個人の心がけの改善」をめざすものではなく、「システム論の領域に属するもので、環境問題を解決するための法律や制度などすべての取り決めの基礎的前提を明らかにする」ものと位置づけました。つまり環境倫理学とは、法律や制度を下支えする環境倫理の中身を探究する学問分野だということになります。

 具体的に、加藤は一九九一年の本のなかで環境倫理学の議論のなかにある重要な主張を三つにまとめて紹介しています。

(1)自然の生存権―人間だけでなく、生物の種、生態系、景観などにも生存の権利があるので、勝手にそれを否定してはならない。

(2)世代間倫理―現在世代は、未来世代の生存可能性に対して責任がある。

(3)地球全体主義―地球の生態系は開いた宇宙ではなくて閉じた世界である。

 みなさんの中には、これらをご存じの人もいるかもしれません。この三つは、高校の「倫理」の教科書にも載っているからです。現在に至るまで、日本ではこの三つの主張が環境倫理として流通しており、これらは環境倫理の最低限の知識となっています。

自然の生存権

 このうち、アメリカの環境倫理学で最も重視されたのは、「自然の生存権」に関する問題でした。この文言を聞いて、次のような疑問がわいた人もいるでしょう。「自然に権利なんてあるのか?」と。人間は権利を主張したり、行使したり、譲渡したりできます。人間以外の生きものはそれができません。ましてや生態系(海とか河とか)に権利があるというのは奇妙な感じがします。

 しかし、アメリカでは「自然の権利訴訟」といって、生きものや生態系を原告として、彼らの権利を守るよう訴えた例があります。実際には代理人として自然保護団体などが裁判を起こしたわけです。日本でも「アマミノクロウサギ訴訟」などの例があります。ただし、自然に権利があるという考え方は法理論的には成り立たないという批判も根強くあり、「自然の権利訴訟」は自然保護のための一種の戦略と捉えられているといえます。むしろ自然の生存権は、「自然保護を法的に義務づけなければならない」という主張として、柔らかく受け取るべきでしょう。

自然の権利に関連して、アメリカでは「自然の価値」をめぐる議論が続けられてきました。これは、「自然にはどんな価値があるのだろうか」という問いであるとともに、「自然を守る理由は何か」という問いでもあります。

 その中で自然には「道具的価値」があるという見解が出されました。これは、「自然には人間にとって役立つ価値がある。だから人間の利益のために守るのだ」という論理で、通常「人間中心主義」と呼ばれています。

 他方で、自然には「内在的価値」があるという見解も出されました。これは「自然には人間の都合に関係なく、そのままで価値がある。だから、人間の利益にならなくても守るべきなのだ」というものです。こちらは「人間非中心主義」と呼ばれています。そしてこの二つは「自然をどう捉えるか、なぜ守るのか」についての対立する立場となりました。

 このような「道具的価値」と「内在的価値」、「人間中心主義」と「人間非中心主義」の対立のポイントは、「自然を守るのは人間のためなのか、それとも自然自体のためなのか」にあります。人間のためならば、人間の利益にならない自然は守る必要がなくなります。自然自体のためならば、人間の利益を犠牲にしても、自然を守らなければいけなくなります。みなさんはどう考えるでしょうか。この点は第4章と第5章で取り上げていきます。


 

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