十代を生き延びる 安心な僕らのレジスタンス

第12回 善が偽装(ぎそう)された世界に生まれたあなたへ

寺子屋ネット福岡の代表として、小学生から高校生まで多くの十代の子供たちと関わってきた鳥羽和久さんの連載第12回。あらかじめ悪いことができないように設計された社会に生きている私たち。それはいいことなのでしょうか?

この連載は大幅に加筆し構成し直して、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)として刊行されています。 刊行1年を機に、多くの方々に読んでいただきたいと思い、再掲載いたします。

「善き人」とされる人の実像

そういえば世の中には、たとえばペシャワール会の中村哲さん(注4)のように「善き人」として称(たた)えられている人もいます。しかしながら、彼ら自身は決して自分を「善き人」の立場に置くことを好まないはずです。

なぜなら、彼らは自分の信念を貫くことが、ときに他人を不幸にすることを知っているからです。その困難を身に沁(し)みて感じているからです。だからといって信念を捨てることはできず、かといって、他人を見捨てることもできずに揺らぎ続けている。世間から「善き人」とされる人たちの実像は、献身的な善い行いの中にあるのではなく、迷いと揺らぎの中にしかありません。

だからあなたも、自分や他人をいたずらに「善き人」に見立てることなく、善と悪の間で揺れ続けるしかありません。いつでも「善くありたい」と切望しながら、一方で自分の裡(うち)にある悪の手触りをジリジリと感じ続けるしかありません。

「善」を気取る人とそれができない人

私は学生時代、体育祭などで行われる集団行動が大嫌いでした。一時的ではあれ、それが完全に正しいという姿勢を取りながら、個人をモノのように取り扱おうとするやり方に暴力性を感じ、猛烈な気持ち悪さを感じていました。だから、そのような虚勢(きょせい)に対しては、私の方もそれは間違っているという単純な二元論を演技するしかありませんでした。学校の校則には法的根拠がないことに気づき、間違っているのはあなただと、職員室に乗り込んで先生たちに主張したこともありました。

しかし、これっていま言ったとおり、ある種の演技なんですよね。みずからで「善」を気取る演技。でも、演技の気持ちよさにそのまま自分を乗っ取られてしまう人が多いのでしょう。私自身、学級委員やら生徒会やらをやっていたこともあり、間違いなくそういう傾向があったと思いますし、いまでも完全に拭(ぬぐ)い去ることはできていないでしょう。

しかし、そうじゃない人たちもいました。「あなたにもいいところがあるよ」「もっと自信を持って!」「やればできるよ!」……。そういう大人の甘い言葉が、単に自分を扱いやすい子どもに仕立てようとする都合の良い嘘であることに気づいて、彼らはそれに全身で抵抗していました。周囲の「好意」を全力で蹴飛(けと)ばして、同時にまだ何者でもない自分の無力さを責めていました。そして彼らは無力感を持て余したまま、グレた行動をとっていました。

彼らがやった悪いことを擁護(ようご)する気持ちはありません。(私の友人は彼らにイジめられた結果、受験期に入院をするハメになり、そのせいで受験ができなくなりました。本当に許せないといまでも思っています。)しかし、彼らは少なくとも善人であることを自認するような人たちではありませんでした。みずからを善人と確信して、悪人を裁くような過(あやま)ちは犯していませんでした。

現在は、多様性が大切だといたるところでスローガンとして掲げられているわりに、悪に対する不寛容はすさまじいものがあります。鋭い言葉遣いや頑(かたく)なな態度は、それだけで多様性を十分に認めないものとして排除される傾向にあります。

だから、いまや彼らの体当たりの抵抗は、時代遅れの野蛮さとして簡単に退けられてしまうでしょう。でも、私はこんなふうに、善を気取ることさえできなかった彼らの粗暴さに人間らしさを見出し、ささやかな親しみを感じます。

ギリギリアウトを狙う子どもたち

ただし、いまの子どもたちも「いい子」ばかりではありません。彼らの中には大人が設計した善を偽装した世界を突破して、悪が可視化された世界を楽しんでいる子もいます。たとえば中1のある子は、毎日ダークウェブを彷徨(さまよ)いながら世界の巨悪を垣間見(かいまみ)てニヤニヤしていますし、他にも、オンラインゲームの「界隈(かいわい)」で、年齢関係なくおしゃべりをすることで大人のリアルな本音を聞き出し、そこから社会の悪を嗅(か)ぎつける子もいます。

子どもたちは、日常的な遊びの中でも悪を抽出(ちゅうしゅつ)してみせます。彼らはたびたび差別的ともとれる発言をしたり、不謹慎(ふきんしん)な替え歌を歌ったり、不穏(ふおん)な絵を描いたりしますが、そういうとき、彼らはギリギリアウトを狙う遊びをしていると感じます。そして、私はそんなときに、子どもの生き延びる本性を見せつけられた思いがします。

きっと子どもたちは、ギリギリアウトを狙った遊びを通して、自らの身体でヒリヒリとした悪を実感しようとしているのです。だから、これを読んでいる大人には、子どもに目くじらを立てることなく、ある程度勝手気ままに泳がせてあげてほしいと思います。大人(特に親)が子どもに許容できることの範囲は、世界の大きさに比べたらあまりに小さいですから。

あなたはこれからも、善き人を追い求めながら、そのたびにあくどい自分を見出して絶望しながら、生き抜いてください。人を気遣い、配慮すればするほど、自分に避けがたく悪が忍び寄ることを全身で感じながら、自分の善意にことごとく挫折(ざせつ)しながら、それでも強く生き延びてください。

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(注1)具体的他者と交わる際には常に政治的局面が現れます。他者に対するふるまいを気にする(ときに気にしない)ことが、そのまま政治的であるということです。
(注2)ドイツ(プロイセン)出身の哲学者、経済学者。資本主義社会の研究の成果は『資本論』に結実しました。20世紀以降の国際政治や思想に多大な影響を与えました。
(注3)同語反復のこと。命題論理において、要素となる命題の真偽がいかなるものであっても、常に真となるような論理式。
(注4)福岡市出身の医師。PMS(平和医療団・日本)総院長。1984年にパキスタンのペシャワールに赴任以来、同国やアフガニスタンの貧困地区や山岳無医地区での診療活動を行ったほか、現地での大規模な灌漑水路の建設にも携わりましたが、2019年にアフガニスタンのジャララバードで凶弾に倒れました。


※本連載に登場するエピソードは、事実関係を大幅に変更しております。
 

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