明治生まれの大工はなぜ憤ったのか
その昔、衣食住という行為は、つくるのも消費するのも同じ人間が行うのがあたり前だった。昔といっても、たかだか50年くらい前の話である。
自分が着るもの、家族が着るものはある程度自分たちの手でつくった。花森安治がいた頃の『暮しの手帖』に洋服のつくり方が掲載されていたのは、それを必要とする人がたくさんいたからである。夏になると自分の畑で収穫したトマトやキュウリが毎日食卓にのぼった。私の実家ではそれが毎夏の風景だった。
住まいも同じ。現在、家づくりのほとんどはハウスメーカーや工務店が担っているが、彼らが広域で営業を始めるようになるのは主に戦後である。それ以前は、設計も施工も材料調達もほとんどが狭い地域のなかで完結していた。家を建てたい人は、自分が所属する地域の大工や左官職人などに直接依頼して、自分もプロジェクトの一員として新しいわが家の建設にたずさわったのである。
私の祖父は明治生まれの大工だった。職人としての全盛期は戦後のほうが長かったが、仕事のスタイルはむしろ戦前を踏襲していた。工務店のような集団は組織せず、家づくりの注文を施主から個別に請けた。棟梁である祖父のもとに家づくりの依頼があると、そのつど必要な職人たちに声をかけ、ときには施主や近所の人たちの手も借りながら一軒の家を建てた。
祖父の通夜の席で、伯父からこんな思い出話を聞かされたことがある。伯父は30代の頃、自宅の新築を妻の父である祖父に依頼した。工事は順調に進んだが、ある日祖父に呼び出されこんな小言を言われたという。
「なんで自分の家を建てよるのに、現場にぜんぜん見に来んのか」
建設中の現場になかなか顔を出さない伯父に祖父は静かに憤ったという。昔の大工の感覚では、家づくりを依頼した施主は工事の進捗を職人と共に見届ける義務があったのだろう、と伯父は祖父との一件を懐かしんだ。
いま、このような感覚をもつ人は施主にも職人にもほとんどいない。ハウスメーカーや工務店に家づくりを依頼する人は、現場のことはすべて現場におまかせするのがお客さまとしてあるべき姿だと信じている。現場の側もまた同じだ。近頃は、たとえお施主さまといえども、建設中の現場には一切立ち入らないようにお願いしている会社もある。火災予防、災害予防などもっともらしい理由を伝えられるが、本音を言えば面倒な施主とはなるべく関わりたくないのだ。
家づくりの現場はわずか半世紀のあいだに、生産と消費がくっきり色分けされる世界に変わってしまった。

自分の家を半分だけつくる
家づくりのプレイヤーが生産側と消費側ではっきり分かれ始めたのは、おそらく消費者保護の概念が広がって以降である。悪徳業者による手抜き工事でお客さまが不利益をこうむらないよう、住宅関連の会社にはさまざまな規制がかけられるようになった。お客さまに対し、常に説明が求められるようになった。片や悪いことをしでかしそうな住宅会社、片や悪いことをしでかされそうなお客さま。そんな図式である。
結果、人を見たら泥棒と思うようになったお客さまは、ハウスメーカーや工務店の一挙手一投足になにかとケチをつけるようになった。気づけば、本来か弱き存在であるはずの消費者は生産者にとって最強の弱者になっていた。きのうまで笑顔で打ち合わせをしていた施主が突然クレーマーに変貌する例は、いまではちっとも珍しくない。住宅会社の営業担当は、日々薄氷を踏む思いで目の前のお客さまに対峙している。
そんな腫れ物にさわるような家づくりとは一線を画す現場に、ごくまれに出くわすことがある。それが今回のテーマ「ハーフビルドによる家づくり」だ。