彼女たちの戦争

第23回:アンナ・アフマートヴァ

PR誌「ちくま」の2020年の表紙を飾り、多くの反響を呼び起こした「彼女たちの戦争」が、場所をwebに移して新たにお目見えします。歴史のなかで、女性であるがゆえに脇に押しやられながら、その才能をたしかに輝かせた女性たちの闘いの軌跡。
モディリアニによるデッサン画をもとに 新婚旅行で訪れたパリで 1911年 22歳

 

エジョフの恐るべき歳月を私はレニングラードの獄舎の前の列に並んで十七箇月間過ごした。
ある時だれかが私を「見分けた」。そのとき私の後ろに立っていた真っ青な唇のある女が、無論私の名を知るはずもないのに、私たちにつきものの呆然自失からふと我に返ると、私の耳元で囁いた。(そこでは誰もがささやき声で話した。)
「このことをすっかり書くことができますか?」
私は言った。
「できますとも」
すると何か微笑みのようなものがかつてその人の顔であったあたりをかすめた。
一九五七年四月一日 レニングラード
(アンナ・アフマートヴァ詩集『レクイエム』「序にかえて」より)

 彼女の詩集『レクイエム』が彼女の生前、正式に出版されることはなかった(ロシア国内には密かにその写しが流布し、ミュンヘンで承認なしに出版はされたそうだが)。
 なぜならそれは、ソビエト連邦、スターリンによる大粛清時代、「人民の敵」として捕らえられた夫や息子たちに差し入れをするため十字獄(レニングラードの監獄)に並ぶ女たちに捧げられた、詩集だったから。
 彼女もまた、捕らえられた息子レフのためにその列に並ぶひとりであった(ちなみにその息子レフの父親であり、彼女の前夫であるグミリョーフは銃殺されている)。
 詩を書き留めることも、口にすることさえ危険な日々。彼女が詩を走り書きした紙はなにげないお喋りともに女たち――たとえば作家であり夫が逮捕されていた(後に処刑されていたことが判明する)チュコフスカヤ――に手渡され、詩が記憶されるとすぐさまそれは灰皿の中で燃やされた。その詩は、二十年間、彼女と彼女のまわりの幾人かの人たちの記憶の中に保存された。

 黒海のほとりオデッサ近郊、ボリショイ・フォンタンの町に生まれた彼女は、ツァールスコエ・セローとキエフ、サンクトペテルブルクで学び、まだ十代のうちから詩作をはじめる。
 その後、詩人であるグリミーリョフと結婚(その新婚旅行で訪れたパリで画家のアメデオ・モディリアーニと出会い短くも熱い恋に落ちる)、その後、第一詩集『夕べ』を出版し、夫のグリミーリョフやマンデリシュタームらと共に〈アクメイスト〉詩人として名を馳せた。
 しかしやがてロシアでは革命が起き、レーニンの死後、スターリンの圧政がはじまる。
 グリミーリョフは銃殺され、マンデリシュタームはシベリアへ流刑になりその地で死亡。
 彼女の著作は発禁処分を受け、彼女も仕事を奪われ沈黙を強いられることになる。
 その沈黙の中、彼女と彼女のまわりの人たちの記憶に刻まれたのが、かの詩であった。
 「序にかえて」が書かれ燃やされたとき、彼女は67歳。
 かつては着飾り、勝ち誇っていた彼女は、今や住む家もままならず、もつれた髪をふりみだし、くしゃくしゃの毛布に包まれながら、その詩が記憶されたかを確かめた。

 彼女の『レクイエム』「序にかえて」は、カロリン・エムケの『なぜならそれは言葉にできるから――証言することと正義について』の冒頭に引用されている。暴力を前に、語ることの難しさを痛感しながら、それでもなお語ること、語ろうとすること。
 私はそのことを考えるとき、彼女を、彼女の詩を、そして彼女の詩を燃やしながら一言一句違わないよう懸命に記憶し続け、彼女よりも長く生き続けることを果たした女たちのことを考えずにはいられない。


参考・引用文献
『レクイエム』アンナ・アフマートヴァ、木下晴世訳、群像社
『アフマートヴァ詩集――白い群れ・主の年』アンナ・アフマートヴァ、木下晴世訳、群像社
『アフマートヴァの想い出』アナトーリイ・ナイマン、木下晴世訳、群像社
『詩の運命――アフマートヴァと民衆の受難史』武藤洋二、新樹社
『なぜならそれは言葉にできるから――証言することと正義について』カロリン・エムケ、浅井晶子訳、みすず書房
 

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