十代を生き延びる 安心な僕らのレジスタンス

第14回 親はいかにして親になり、あなたに愛を伝えたのか

寺子屋ネット福岡の代表として、小学生から高校生まで多くの十代の子供たちと関わってきた鳥羽和久さんの連載第14回。親に感謝するのは当然のこと?

この連載は大幅に加筆し構成し直して、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)として刊行されています。 刊行1年を機に、多くの方々に読んでいただきたいと思い、再掲載いたします。

親は勝手にあなたを育てた

親に感謝の気持ちを抱(いだ)いている人は多いでしょう。親がちゃんと育ててくれたからこそ、あなたはいま無事に生きているわけですから。その意味では、あなたにとって、親は人生でいちばんの恩人とさえ言えるかもしれません。

最近はあまり行われなくなってきましたが、小学校の「二分の一成人式」で当たり前のように子どもに親への感謝の手紙を書かせていた学校の対応なんかを見ていても、少なくとも社会表面上では、親に感謝するのは当然のことだという共通了解があるようです。

でも、あなたは一方で、こうも言うことができます。べつに私は親に「育てて」なんて頼んでない。私を勝手に産んで、勝手に育てたんでしょ。

親があなたを育てたのは、必ずしもあなたのためではないし、あなたがかわいいからという単純な理由でもありません。親はあなたを守ることを通して、自分の人生を必死に生き抜いてきたに過ぎません。その意味では、親は確かに自分の都合で勝手にあなたを育てたのです。人生というのは、人の勝手と勝手がぶつかり合ってその摩擦を味わっていくものであり、それは親子の間でも他人どうしでも本質的には変わりません。

これは決して、親への感謝の気持ちを否定しているわけではないのですが、感謝の比重が高くなりすぎると、それがあなたの人生を左右するほどの負荷になり、身動きが取れなくなることがありますから、親があなたを勝手に育てたという視点はバランスを取るために有効です。

あなたの眼差(まなざ)しで、親は親になった

あなたの親は、あなたが生まれたそのときには、まだ十分に親ではありませんでした。あなたの親を親たらしめたのは、あなたでした。

あなたを産んで親になったその人は、壊れそうに小さくて頼りないあなたをしげしげと見つめていました。そして、どこまでもやわらかくて弱々しいあなたは、無防備なままに全身をその人に預けていました。自他境界のないあなたにとって、あなたを抱きかかえる親は自分そのものであり、世界そのものでした。そんなあなたを見つめながら、親はあなたが私の世界そのものだと思いました。明日もこれが続くならば、私はもうそれだけでいい、他には何も望まない。そんな気持ちにもなりました。

でも、あなたは親にとってかわいいだけではなく、ときに不気味な存在でした。少し大きくなったあなたは、私をじっと見つめて「好き」を全身全霊で伝えてくれます。でも、そんなあなたの無条件の愛が、不意に怖ろしくなるのです。見返りのないあなたの眼差しに、思わずうろたえてしまうのです。

他に何も望まないと思えるほどかわいいあなた。ときにうろたえてしまうほど私を欲しようとするあなた。そんなあなたから見つめられ、欲望されることを通して、あなたを生み育てたその人たちは、ようやく自分が親であるという実感を深く得るようになりました。

あなたは親に守られコントロールされながら生きてきた

しかし、実感を得たところで、親とあなたの関係がうまくいくとは限りません。なぜなら、すべての親は、子どもをうまく愛せないという病(やまい)を抱えているからです。そんなまさかと思うかもしれませんが、親というのは、程度の差こそあれ、あなたにどう接すればよいか、あなたの心をどう扱ったらよいかという肝心なところがよくわかっていないんです。

あなたは親のことを過信していますから、まさか親がわからないのに当てずっぽうで適当なことをやっているなんて、夢にも思わないでしょう。

でも、当てずっぽうが悪いと言っているわけではないのです。当てずっぽうであっても、言葉には新しい現実を生み出す力がありますから、あなたは親が作った現実の中で、ときに守られながら、ときにコントロールされながら生きてきたわけです。言い換えれば、親に半ば騙(だま)されることを通して、わからないなりの言葉の扱い方、態度の示し方、そして人の愛し方を学んできたとも言えます。

親は自分の言葉を手放して親になった

あなたは次第に成長し、自我を持ち始め、ようやく自分の考えらしきものを親の前で披露するようになります。それに気づいた親は、どこまであなたの手を離して、どこまであなたを守ればよいのかについて葛藤(かっとう)し始めます。

あなたを守ることは、同時にあなたを抑圧することになる。でも、抑圧しすぎると、子どもは育たない。だからといって、抑圧しなければ、私は子どもを育てられない……。そうやって延々と逡巡(しゅんじゅん)を繰り返すうちに、苦しみのループに巻き込まれ、親はその思考からいっときもあなたを手放すことができなくなります。

こうして親は、世間の波に巻き込まれるうちに、親としてのこわばりを身につけていきます。そして、多くの大人は「親として」話すようになったとたんに、自分独特の言葉を手放してしまうのです。

親は「私もちゃんとした親でありたい」と望みます。しかし、親はそのとき、あなたに対してちゃんとしたいというより、世間に対して恥ずかしくないようにちゃんとしたいと思っているんです。そしてその結果、親はほとんど世間そのものとして、あなたの前に立ちはだかるようになります。

親というのは不思議なもので、自分が子ども時代を経験しているにもかかわらず、親になるとなぜか子どものことがわからなくなります。その理由は、このように「親として」の自我を新しく実装することの代償(だいしょう)として、それ以前にあった自分独特の言葉を失うからでしょう。

ちなみに、自分の言葉を持たない大人は何も親だけではありません。人は何者かになったとたんに、固有の言葉を捨てて、例えば、医者として、教師として、何者かになりきって話そうとするものです。これは、幼い子どもが「ごっこ遊び」をするのと同じ要領ですね。大人社会も基本はごっこ遊びの延長ですから、何者かを実装した瞬間から、誰もが芝居(しばい)がかった平板な存在になるのです。

こうした言葉を失うことには、実は大人にとって隠されたメリットがあります。それは、自分の実存を深いところで肯定できない大人たちが、自分の問題について考えなくてよくなるということです。これからは自分の物語を生きるのではなく、子どものサポーターとして生きればよい、〇〇としての責務を全(まっと)うすればよいと思うことで、自分を生きるターンから降りることができるのです。

親という単純な生き物

いまや「親として」の親は、あなたの自由を逐一(ちくいち)奪おうとする厄介(やっかい)な存在です。親があなたのために良かれと思って動くたびに、あなたの人生は平板で味気(あじけ)ないものになっていくのですから。

親は、結局のところ、ただ子どもが人の道を踏み外さないようにと願い、子どもの安全と人並みの幸福を願っているだけの存在です。その意味において、親は創造性の欠片(かけら)もないあまりに単純な生き物です。

そうやって親が望むように無難に生きようとする限りにおいて、あなたの人生には自由なんてどこにもありません。結局はあなたも世間の波に巻き込まれ、呑(の)み込まれることで自分の多様な可能性を見失ってしまうわけですから。そして、気づいたときには、せまい世界の中で、不平不満を言うことくらいしか抵抗の手段がない窮屈(きゅうくつ)な人生を、あなたは歩んでいるのです。

しかし、ちょっとこれまでの内容を覆(くつがえ)すようなことを言いますが、だからといってあなたの人生を邪魔する親、いわゆる毒親が悪いんだとか、私はそんな話をしたいんじゃないんです。

あなたはいつもそんなふうに、これはいい、これはダメだとすぐに肯定と否定(または善と悪)の二元論で考えてしまうかもしれませんが、もしあなたが何事もそんなふうに受け取ってしまうとすれば、それは単なる思考のクセです。それは、あなたが幼い頃に親に「否定される」ことを通して身につけてしまったクセかもしれません。この辺りのことを、いまからもう少し掘り下げてみましょう。

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