もしも家を建てるなら

第十一回  ポジティブの代償
南の大きな掃き出し窓は必要ですか?【アウトラインをつかむ⑤】

南側に大きな掃き出し窓、これは日本の住まいの特徴といえます。日当たりや風通しの良さを求めた標準装備です。けれどその思いとはウラハラに、冬は寒くて夏暑い。大窓の前に物は置きにくいし、道路に面していればプライバシーも気になる。けっきょく大きな掃き出し窓は、いつも厚いカーテンを閉め切ったままというお宅も少なくないようです。窓の機能を損ねずに、窓がもつ明るいイメージを両立させることは、はたして可能なのでしょうか。

ガラスの壁、暗い壁

 掃き出し窓と呼ばれる窓がある。

 あなたの家にもあると思う。庭やバルコニーとの境目にある大きな引き違いの窓、あれが掃き出し窓だ。日本の住宅のほとんどは建物の南面に必ずといっていいほど大きな掃き出し窓を設ける。そこに疑いを抱く人はあまりいない。

 室内のゴミやホコリをそこから「掃き出した」のが語源といわれる。昔は、現在の地窓のように高さの低いものをいったが、いつの間にか背丈を上まわる高さのものも掃き出し窓と呼ぶようになった。

 西洋の住宅にも掃き出し窓はある。けれど、日本のように標準装備されることはない。そこには気候風土などにともなう建築構法の違いが大きく関係しているのだが、話が長くなるのでここでは割愛する。

 近所の住宅地をぶらっとひとまわりしてみる。

 やはり、ほぼすべての家に掃き出し窓がついている。幅1800ミリ前後の窓を、間に壁を挟んで2か所設けている家が多い。窓の奥はリビング・ダイニングである。ただし、昼間にもかかわらずカーテンを閉め切っている。それも厚手のドレープカーテンだ。せっかく南面に大きな窓をつけているのに、これでは明るい光も気持ちのよい風も入ってこない。

 いや、無理もないだろう。カーテンを閉めている家はみな、目の前が歩行者やクルマの行きかう道路なのだ。私のような不審者に家の中を覗きこまれても困る。たとえ日中でも、カーテンはしっかり閉めておかなければならない。せめてレースのカーテンだけにしておけば外から光が入って室内が明るくなるのでは……と余計なお世話を言いたくなったりもするが、そのような隙を見せている家は一軒もない。なかにはカーテンだけでは手ぬるいとばかりに雨戸をぴしゃっと閉じている家もある。おそらく一年中その態勢なのだろう。

 ここでひとつの疑問が浮かぶ。

 はたしてそのような掃き出し窓を、窓と呼んでもよいのだろうか。

 一年中カーテンで閉ざされた窓はほとんど壁である。光は入らない、風も入らない、そこから出入りする人もおそらくいない。そのような窓を本当に窓と呼んでもよいのだろうか。

 なかでも建売住宅に顕著である。わが家の近所はこのところ大手デベロッパーによる宅地開発が花ざかりだ。新しくできた街区を歩いてみると道路から1~2メートルほどの位置に壁面が迫っている家によく出くわす。手を伸ばせば外壁に触れられそうなほど近い。その壁に掃き出し窓がついている。そんな家で新しい生活が始まれば、引っ越し早々、明るい窓が暗い壁に変わるのは目に見えている。だいじょうぶか……建売。

 

両者の言い分を想像する

 ある50代の建築家は、壁のような掃き出し窓が量産される事情を次のように推測した。

「ひと言でいえば固定観念でしょう。建物の南面には大きな掃き出し窓を設けるものである――設計側がその観念にしばられているんです。あるいは、設計する敷地や周囲の環境をつぶさに見ていないのかもしれません。敷地の南側に道路があるなら、通常は採光や通風を別の方法で考えるものです。けれど、敷地を見ていない、もしくは設計する側に敷地周辺の環境を読み解く力がなければ別の方法を思いつけません。機械的に区画された宅地に戸建ての模型をポンポン置いていくような設計をしているのであれば、今後も不可解な窓は増えつづけるでしょうね」

 彼はそう言うと、「僕なら建物の東面にハイサイドライト(高窓)を設けて光を入れるけどなぁ」と別の手立てを披露してくれた。

 仮になんらかの事情で掃き出し窓が必要だったとしても、窓を壁にしない方法はいくつか考えられる。ガラスを半透明にする、カーテンをブラインドに変える。それだけでもプライバシーを守りつつ光や風を採り入れられるようになる。

 いっそ掃き出し窓をやめてしまえば、失うものより得るもののほうが多いかもしれない。

 窓の面積を小さくすればそのぶん壁が増える。壁が増えれば、建物全体の断熱性能や気密性能が向上する。プライバシーの確保も容易になる。ものの置き場所も増える(窓ガラスの前にテレビやソファや収納家具は置けないので)。

 では、もう一方の当事者はどうだろう。掃き出し窓をあけたらすぐに道路という家に住む人たちは、なぜそのような家を購入したのだろうか? 当人の生の声を聞いてみたい――と思ったのだが、当事者に問いただすといろいろカドが立ちそうだ。

 そこで事情通に話を向けた。建築エコノミストの森山高至さんである。新国立競技場問題、築地市場移転問題など、業界の枠を超え建築と社会経済の問題に切り込む孤高の才人だ。本職はいまも建築設計である森山さんに当事者の心の内を読み解いてもらった。

「そもそも日本のような高温多湿の国では、窓の少ない家、風通しの悪い家は湿気とカビの悪影響をもろに受けます。昔はそれが建物の不調、体の不調につながり、ひいては死に直結することすらありました。その恐怖を乗り越えるべく先人が編み出したのが、南面の大開口、間仕切壁が少なく風通しのよい東アジア特有の間取りでした。この仕様は住宅の性能が劇的に向上した今でも、家づくりの知恵として脈々と受け継がれています。新しい住まいに求める要望として、日当たりの良さや風通しの良さにこだわる人が多いのは、その切実さを肌で感じているためです」

 たしかに日当たりや風通しの良さは、昔も今も家づくりの最重要テーマである。だが、現実の暮らしぶりはどうだろう。いまの世の中を見渡せば、窓をこまめに開け閉めして室内環境を調整する家は少なくなった。部屋が暑くなればエアコンで冷房をつける。暗くなれば照明のスイッチに手を伸ばす。掃き出し窓の前をクルマがビュンビュン飛ばしているなら、なおさらそのような暮らし方に傾く。道路際の掃き出し窓はやはりやめたほうがいいのではないか。

 だが、そうはいかない。南面の掃き出し窓は、はいそうですかと簡単にはやめられない事情があるのだと森山さんは説明する。

「掃き出し窓にかぎりませんが、窓は建築物の一材料という枠を超え、ときに象徴的に扱われる特別な部材です。窓の大きな家、窓のたくさんある家と聞くと、私たちは例外なくその家に光や夢や希望――つまりポジティブなイメージを抱くものです。そこが重要なんです。道路際に大きな窓をつけてもどうせカーテンが閉めっぱなしになるじゃないかと、最初から窓のない家を売り出したらどうなるでしょうか。おそらくその家は売れ残ると思います。窓はその存在自体が情報でありメッセージなんです。極端にいえば、消費者は採光や通風といった窓本来の機能を求めているわけではありません。彼らがほしいのは、『私の家には大きな窓がついている』という事実だけなのです」

 

通風からイメージへ

 過日、あるハウスメーカーから次のようなリリースが届いた。

「長年改良を重ねてきた全館空調システムの最新版が完成いたしました。新しい機器を搭載したモデルハウスをぜひご覧ください」

 興味本位で出向いてみた。モデルハウスの玄関に入るとすぐさまお客さま案内係につかまった。はきはきとして明るい印象を与える入社3年目くらいの女性である。さっそくパンフレットを手渡され、室内を移動しながらの説明が始まった。

「新しいシステムは空調と同時に調湿も可能になりました。空気清浄機能も大幅にアップしています。室内は常に最適な環境に保たれています」

 要するに、家中の空調を一括制御することで建物をインキュベーター(保育器)にしてしまおうという発想である。

「すでに新しいシステムを導入されているお客さまからは、春先は花粉の心配がないので家の中で過ごすほうが快適です、とのご感想をいただいております」

 たしかに花粉症の人にはありがたいシステムかもしれない。屋外の空気は誰にとっても新鮮で気持ちがよいものとはかぎらない。私は頃合いをみて係の女性にたずねた。

「ところでこの家は、窓を開けたり閉めたりする必要がありますか?」

 音声ガイドのようによどみなく返ってきた。

「いえ、ずっと閉めておいていただいたほうがよろしいかと存じます」

 目の前にはたくさんの大きな窓があった。でもそれらは、空調一括制御のためにずっと閉めておいたほうがいいという。これもまた、壁のような窓をもつ家といえた。

 わが国で家庭用エアコンが普及しはじめるのは1960年代以降である。以来、窓は「風通しのための開閉装置」という役割を急速に失いはじめる。室内環境の調整はもっぱらエアコンに委ねられたためである。

 エアコンの登場は住宅のデザインにも大きな影響を与えた。設計要件のうち「風通しの良さ」のプライオリティがぐっと下がったため、窓(=ガラス)をデザインの一要素として扱える余地が大幅に拡大したのである。それまで開閉を前提としていた窓は「はめ殺し窓」でも許されるようになった。そこから窓の役割は、採光による光のデザイン、ガラスによる建築デザインの二つに大きく傾いていった。俗に「アトリエ系」と呼ばれるデザイン重視の建築家住宅でとくにその傾向が強くなった。

 また、デザインとしての窓は建物に明るさ、軽さ、希望、未来といったポジティブなイメージを付与する記号としても期待されるようになった。窓はそれまで以上に建物のイメージづくりに欠かせないアイテムになったのである。

 くだんのモデルハウスもその延長線上にあったといえる。南面の掃き出し窓はもちろん、吹抜けの壁面、中二階の壁面……光を採り込むための窓がこれでもかというくらいつけられていた。おかげで室内はすみずみまで明るく開放感に満ちていた。まさしく森山さんの指摘した、消費者に夢や希望を感じさせる大きな窓のある家である。

 ただそれは、モデルハウスという一時の夢の世界だけに許される特別な設計でもあった。建築には採光やデザインに専従する窓があってもよいのだが、そのつけ方が過剰になるとどうなるか。窓の無思慮な設置が思わぬトラブルを招いた例はこれまで枚挙にいとまがない。

 

ガラスの事件簿

 川崎市に設計事務所を構えるある女性建築家のもとへ、かつての施主から緊急の電話が入った。急ぎ相談したいことがあるという。

「じつは最近、地元の友人が戸建てを購入したんです。つい最近引っ越したばかりなのですが、これではとても住みつづけられないといって落ち込んでいるみたいなんです。先生、ちょっと相談に乗ってあげられないでしょうか」

 次の土曜日、建築家はクルマを飛ばし群馬県にある元施主の友人宅へと赴いた。丁重な出迎えを受けリビングに通されると、すぐさま「住みつづけられない」の意味を理解した。

 その家は南面がほぼ吹抜けだった。1階に大きな掃き出し窓、2階には大きなはめ殺し窓。吹抜けの上部にはトップライト(天窓)もあった。とても明るく日当たりの良い家である。だが、その日当たりが曲者だった。さんさんと照りつける太陽は、まだ肌寒さの残る四月だというのに真新しい家を灼熱地獄に変えていた。

「あんなところに窓をつけたら、リビングがビニールハウスになっちゃいますよ」

 建築家はトップライトのほうを指差しながら、窓の場所やサイズ、そして太陽との位置関係によりリビングに大量の熱が入り続けている状況を説明した。これでは誰だって住みつづけられない。住み手はその場で急場をしのぐ改修工事を依頼したという。

 日当たりの良さというのは、私たちにいつも二つの変化をもたらしてくれる。

 ひとつは明るさ、もうひとつは暖かさである。暖かさは寒い冬ならありがたい。だが、暑い夏ならかえって迷惑だ。これは一般の人でも経験的に分かる太陽エネルギーの大原則である。

 しかし建築の世界には、この原則がどこかに吹き飛んでしまう人が少なくない。窓をつけるとそこから明るい光が入ってくる。しかし、厄介な熱は入ってこない。そう信じている建築家がいるのである。もしかすると、最新の空調機器をもってすれば熱のエネルギーなどいかようにもコントロールできると過信しているのかもしれない。

 いやいやとんでもない。ガラスを通して侵入する太陽の熱は、方位によっては空調機器を一日中フル稼働させても太刀打ちできないほど巨大なかたまりとなって建築に、人間に牙を向く。それくらい大きなエネルギーなのである。

 そんな事実を知ってか知らでか、デザインとしての窓(ガラス)は、今日ますますその勢いを増している。おそらくいまも日本中で、ガラス張りの駅舎、ガラス張りの図書館、ガラス張りの病院など、「ガラス張りの〇〇」が続々と建設されているはずだ。

 熱の影響を考慮すれば、ガラス面の多い建物は空調機器の負担(電気代)が極端に大きくなる。竣工後の維持費を試算するとコスト面から見直しを迫られてもおかしくない計画も多い。ところが、いざ設計コンペを実施するとガラスを多用した計画案は審査員からの評価が高い。ガラスという素材がもつ透明感、清潔感、開放感――そこに、明るさ、軽さ、希望、未来を感じ取るからだろう。地元の人たちも街の中心部にガラス張りの〇〇が建設されると決まれば、〈いよいよわが街にも明るい未来がやってくるべ〉と期待に胸を膨らませる。建築家のほくそ笑む顔が目に浮かぶようだ。

 その代償は小さくない。たとえば、わが家の近所にある病院は3層吹抜けの南東面がすべてガラス張りという代物である。数年前、そこで健康診断を受けた。一階の受付に入ると、内部は真冬でも汗ばむほどの熱気に包まれていた。日除けのロールスクリーンはすべて垂れ下がっていたが、その間隙を縫って降りそそぐ直射日光は容赦なかった。待合スペースに座っていると、少しいるだけで頭がぼーっとしてきた。建築が光のデザインに淫すると、中にいる人間が巻き添えを食うという実例を身をもって経験することになった。以来、その病院は利用していない。

大きな窓は明るさや開放感をもたらすが、窓の方位やサイズによってはエアコンをフル稼働させても室温が下がらないほど夏場は大量の熱を取りこむ。書棚の蔵書が日焼けして真っ白になるというオマケもつく

シーンと機能

 その昔、ある著名な作曲家は何軒目かの自宅を新築する際、担当する建築家に次のような要望を出した。

「窓は〝シーンとしての窓”と〝機能としての窓”、この二つをきちんと切り分けて設計してください。シーンとしての窓は徹底的に考えてドラマチックな演出を。機能としての窓は光、風などのコントロールが細かく自在にできるように」

 当時、実務担当の一人として設計に参加し、いまは独立して自身の設計事務所を構えている建築家M氏は、窓を二つに切り分けて考えてほしいという作曲家の要望に、自身の建築観が根底から揺さぶられるほど強い衝撃を受けたと私に話してくれたことがある。

「恥ずかしながら、当時まだ20代だった私は窓を建築デザインの一部としてしか見ていませんでした。ガラスという素材をどのように扱えば自分がイメージする建築像に近づけられるか、それしか考えていなかったんです。そんなとき、窓はシーンと機能を切り分けてほしいという先生の要望はぐさりと刺さりましたね。いまだにそのひと言は、窓について考える際の私の指針になっています」

 窓をめぐるやり取りを聞いていると、ときに建築家より施主のほうが真っ当な意見を述べていると感じる場面が多々ある。施主はしきりに日当たりや風通しのことを気にしているのだが、建築家はガラスの位置や縦横のバランス、窓枠の幅を何ミリにするかで悩んだりしている。窓枠の幅なんて何ミリだっていいじゃないかと思われるかもしれないが、人によってはこれが業界内における死活問題に発展するのだ。

 そんな両者をつなぐ共通言語として、「シーンとしての窓」と「機能としての窓」はちょうどよいキーワードになるかもしれない。道路際の掃き出し窓も、ガラスだらけの病院も、この切り口で見直せば窓そのものの妥当性が否が応でも浮き彫りになる。

 敷地の広さに余裕があり建物の南側にたっぷり庭を設けられた時代は、大きな掃き出し窓にも意味があった。南側を大きく開けば日当たりは良くなり、風通しも良くなった。当時はいまほどプライバシーにもうるさくなかっただろう。だが、そのような時代はとうに過ぎている。日本の住宅の象徴ともいうべき掃き出し窓だが、その位置づけと役割についてはずいぶん前に見直すべき時期がきていたような気がする。建物の南面は条件反射で掃き出し窓にする必要はない。明るくポジティブな透明感に負けそうになるが、ここはひとつ落ち着いて考えてほしい。

シーンと機能が検討された窓(設計:森山高至)。桟の入った縦長の窓がニューヨーク・ソーホーのレンガ造ビルを彷彿とさせる独特のシーンを演出する。サッシを木製にするとワイエス、ハンマースホイなどが絵画のモチーフとしたクラシカルな窓を想起させ、室内全体を温かみのある雰囲気で包み込む。小割の窓は通風や採光の調整を可能にし、外部からの視線に対するプライバシーの確保も容易にする