自分の心に聴く
「正しい」と主張するためには、証拠が必要。科学の場合、その「証拠」に当たるのが、実験や観察の結果ということになります。
実験や観察が大事だってことは、小学校の頃からさんざん教わりますね。実際、実験や観察っていうのは、これはもう手順そのものなので、やり方も比較的簡単に教えられるわけです。
では、考える場合、哲学する場合には、どうやって証拠を得たらいいのでしょうか。そう、問題はそこなんですよね。そこが正直言って教えにくい。私も哲学をもう、三〇年くらい教えていますが、まだ試行錯誤の連続。だけど、一つ言えるのは、これはもう地道にやるしかない、ってことです。
科学の場合も、「実験、観察」と言ったって、実は地味な作業の繰り返しです。小中学生が学ぶときには、どういう結果が得られたらいいのかもう分かってるんで、言われた通り実験・観察していればいいけど、科学者たちが実際にやる場合には、「一回やってうまく行った、はいオッケー」っていうんじゃありません。うまく行ったのは「たまたま」かもしれないんで、それを何度も繰り返しやる。失敗したらまたやり直す。何度も失敗したら、ちょっとやり方を変えてみる。さっきはAという薬品を使ったけど、今度はBを使ってみる、それでもだめだったらC、D、EからZまで行って終わりかと思ったら今度はa 、b……、というように、ものすごく地道な作業です。
こうした科学の実証に対して、哲学では論証と言いますが、これも着実に一歩ずつが基本です。
ただ、「道具を使って、目を使って、相手にするのは物の世界」という実証に対して、理由や根拠を考える論証の場合には、物の世界、外に目を向けるんじゃなくて、自分の内側、心に問いかける。そういう違いがあります。
意味のある答え
大事なポイントなのでもう一度確認。大切なのは、意見、答えそのものというよりも、それの前提になっている理由、根拠だっていうことでした。
「人生はゲームだと言えるか」という問いに対して、「言える」とか「言えない」という答えを出すことは、もちろん大事です。だって、それを知りたくて問題を立てているわけだから。でもね、ぶっちゃけた話、内容についてまったく理解していなくても「そうだ!」とか「ノー!」とかって言えるじゃないですか。そうなんですよ、答えは大事だけど、もちろんその通りなんだけど、でも、答えだけでは実はほとんど意味がないのです。「言える」とか「言えない」という答えが答えとして意味をもつのは、「なぜそう言えるか/言えないか」という理由、前提とセットになってこそなのです。
例えば、「縦が四センチで横が五センチの長方形の面積はいくら?」と聞かれて、山田さんは、「長方形の面積は縦かける横だから、この場合は四×五で。答えは二〇平方センチ」と答えました。
西田さんは「長方形の面積は縦かける横で、問題の長方形の場合は四×五を計算すればいいんだから、答えは二〇〇平方センチ」と答えました。
吉村さんは「分かんないけど、だいたい二〇くらい」と答えました。
答えだけ見れば、西田さんは間違っているわけです。正解を答えたのは山田さんと吉村さん。だけど、みなさんが先生として採点する側だったらどうですか。吉村さんのに丸を付けたくないでしょう? だって、それは答えがたまたま合ってただけなんだから。本人も正直に言っているように、分かっていないわけだからね。
それに対して、西田さんは、答え(結論)そのものは間違っているけど、考え方(理由)は合っているわけです。もちろん、いちばんいいのは、山田さんの、考え方も答えも合っている場合だけど。
だから、私がこの三つの答えを採点するなら、山田さん一〇点満点、西田さん五点、吉村さん零点かな。まあ、吉村さんの場合、たまたまだとは言え、「答え」(だけ)は合っているんだからというので、大負けにオマケしても、二点というところでしょうか。逆に、西田さんには七点か八点あげてもいいくらい。
「それはおかしい、だって西田さんの答えは間違っているじゃないか。だけど、吉村さんの答えは合ってる」と言う人がいるかもしれません。でもね、考えてみれば、西田さんは分かってるでしょう? それに対して吉村さんは、申し訳ないけど分かってない。
そう、大事なのは、「答えを出す」とか、「答えを知る」とかじゃなくて、「問題について理解する」こと、「何が問題になっているかが分かる」ことなのです。