絶対的な答え
ついでに、これも授業でわりあいよく出てくる「絶対的な答えなんかないと思います」っていう意見を採り上げてみましょう。
うん、私もそう思います。例えば、「一足す一は幾つですか」という問題があるとします。多くの人は(というか、ほとんどの人は)、「答えは二です」と答えるでしょう。だけど、それは「絶対に」と言えますか?
えーっと、例えばの話ですけど、水一リットルとエタノール一リットルを足すと、実は二リットルになりません。水の分子は大きいので、その中に小さなエタノールの分子が入りこんでしまって、いわば縮んでしまうからです。
こうした例は別に珍しくはありません。「一足す一」が二にならない例はいくらでも挙げられます。だから、「一足す一は二」というのは、「いろんな例外を除いて、単なる数字として考えれば」という条件が、隠れた前提としてあるのです。
「絶対的に」というのは、言い換えれば、「まったく無条件に」ということです。さらに言い換えれば、「なんの前提もなしに」ということです。そんなの考えられないです。我々が何かを考えるとき、もうそれはその「何か」ということで条件ないし前提が織り込まれているのです。
隠れた前提を明らかにする
ところが、多くの場合、我々はそうした隠れた前提みたいなのがあることを忘れがちです。あるいは「常識」と思って言わなかったりする。これこれ! これが曲者なんですよ。だって、こっちが「そんなの常識だろう」って思っていても、相手がそれを分かってくれなかったり、逆に、予想もしてなかったことを「こんなの常識でしょう? 知らないの?」と責められたりすることもよくあるからです。
そう、だから、人と話をするとき、特によく知らない人と話をするときには、そういう隠れた前提に注意しないといけません。そのためにはふだんから、自分がどんな前提をもっているかを自覚しておいた方がいいです。
例えば、「人生はリセットできないから、人生はゲームではない」という主張は、当然のことながら、「人生はリセットできない」という前提をもっています。これは分かる。だけど、この言い方だけだと隠れてしまっているけど、もう一つ、「ゲームはリセットできるもの」という前提があるはずです。
「いや、そんなの当たり前じゃん、当たり前のことを改めて言ってどうするの?」と思う人もいるでしょう。だけど、そういう「自分の当たり前」が、いつでも「みんなの当たり前」だとは限りません。SNSなんかで、お互いによく知らない人たちの間で争いが起こったり炎上したりするのもそのためです。ああいうのはほとんどの場合、「自分の当たり前がみんなにとっても当たり前に違いない」とひそかに思い込むことから生まれています。
実際、「ゲームはリセットできる」というこの前提はかなり怪しいです。というのは、「人生はリセットできないから、人生はゲームではない」と言う人に話を聞いてみると、こういう人が「ゲーム」と呼んでいるのは、つまりはコンピュータゲームのことなのです。でも、「ゲーム」と言ったって、スポーツだってゲームの一種でしょう? で、「昨日の巨人・阪神戦では巨人が勝ったけど、気に入らないからリセット」などと言っても、それは通用しない。別にスポーツじゃなくてもいいです。カジノで、「負け込んできたから、今までのはナシね」なんていうわけにはいかないでしょうねえ。
これで分かるように、自分が「常識」だと思っていることは、なんせ自分にとっては「常識」で「当たり前」なので、あえて「これが議論の前提、考えるときの条件だ」などと意識していない。だけど、そうした自分にとっての「常識」が、他の人にとっては全然「常識」じゃないこともある。
「理解する」なんて言うと、「知らないことを知る」っていう意味だと思っている人がいます。でも、実はね、「分かる」とか「理解する」っていうことのかなりの部分は、「今まで知らなかったことを知る」というより、「なんとなく知っていたけどはっきりしていなかったことをはっきりさせる」ことだったり、あるいは、「自分では気づいていなかったけど、暗黙のうちに前提にしていたことを自覚する」ことだったりするのです。これがさっき言った「自分の心に聴く」っていうことです。
「自分では気づいていない隠れた前提に注意しなくちゃけない」なんて言うと、うっとうしく思ってネガティブに受け取る人もいるかもしれないけど、ちょっと積極的に言うと、そういう前提に気づいていれば、そこから答えを導いたり、結論を出したりすることができる(少なくとも考えの道筋ができる)と言えます。