十代を生き延びる 安心な僕らのレジスタンス

第15回 みんなお金がほしい世の中で

寺子屋ネット福岡の代表として、小学生から高校生まで多くの十代の子供たちと関わってきた鳥羽和久さんの連載第15回はお金の話です。お金ってたくさんあった方がいいのかな?

この連載は大幅に加筆し構成し直して、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)として刊行されています。 刊行1年を機に、多くの方々に読んでいただきたいと思い、再掲載いたします。

労働力商品としての価値を高めるための勉強

忘れもしませんが、高校1年のころ、ふだんから弁が立つ英語のE先生が、授業中に宿題をやってこなかった私に向かって言いました。「トバチン、お前はいま、労働力商品としての価値を高めるために勉強してるんだ。そんなことじゃ将来のお前には買い手がつかないよ。価値を高めて社会を生き抜きたいなら、大人しく勉強をがんばりなさい、トバチンスキイ!」

トバチンスキイというのはE先生が私に付けたあだ名で、先生はロシアの文学や社会科学が好きだったので、クラスで悪目立ちする生徒の名前をロシア風に呼んでいたのです。同じクラスにはイシゲーネフ(石毛くん)やナツコーリニコフ(夏子さん)もいました。

私はそのときE先生が言った「労働力商品としての価値を高める」という言い方が、人をモノ扱いするみたいでとてもイヤでした。だから社会に出たいなんて決して思わないんだ、社会に出たらそれだけで負けだと思いました。自分が世界と繋がっている実感を得ることがないままに、資本の力に巻き込まれていつのまにか自分が空洞になってしまうなんて、そんなのはまっぴらだと思いました。空洞になるから、それを埋めようとして大人は高価な時計や車なんかをほしがったりするんだろ。そんなのはつまらないし興味もないと思いました。

その後、私は就職活動をすることなく、大学院時代に自分で事業を始め、それがいつの間にか株式会社になって現在に至るのですが、いまとなってはE先生の言葉の中に資本主義への怨言(えんげん)が含まれていたことが理解できるし、仕事を20年続けてきたことで社会の中での自分の立ち位置もようやく見えてきました。(ほんとうに、やっとのことで少し見えてきたという程度ですが。)

お金は流れないと意味がない

お金というのは価値の量であり、価値の流れです。死ぬまで滞留(たいりゅう)したままのお金には(少なくとも当人には)意味がありません。流れることではじめて意味を持つのがお金です。そして、流れることは、気持ちのよさ(思考の流れのような精神的なもの)と関係しています。(注5)

ですから問題は、資本主義をどうするか?とか、お金に翻弄(ほんろう)されるような人生に意味があるのか?とかではなくて、まずは自分が気持ちいいかどうかです。より気持ちよくなることを突き詰めたほうがいいのです。この突き詰め方が足りないせいで、すぐに自分から資本主義の生贄(いけにえ)になってしまう人が多いことが問題なのです。

人生は結局お金か、それともお金じゃないか? たびたびそんな問いが立てられますが、人生がお金のわけがないじゃないですか。しかし、それでありながら、みんなお金がほしいのです。それ以外は何もほしくないのです。(注6)だから、お金がないせいで死を選ぶ人さえいるのです。

人生はお金ではないけれど、人生の凸凹(でこぼこ)はお金によって象(かたど)られます。一見してお金の問題には見えない家族内や他人との間の紛糾やトラブルも、もとをたどればお金の話、お金に付随する欲望の話であることがほんとうに多いのです。でもそれをお金の問題として直接的に語ることを避けたがるから、倫理や道徳、義理や礼節などさまざまな形に変わり、他人にも自分にも解らなくなるだけのことなのです。(注7)


注1:こんなことを書いていると、世界の近代史に詳しいあなたからツッコミが入りそうです。お金なんて信用がなくなってしまえばただの紙きれじゃないかと。銀行の預金だって、国の経済が破綻(はたん)してお金自体の価値が下がったら、ほとんど一文(いちもん)無しになってしまうじゃないかと。中高の教科書にも登場するように、いまから百年くらい前、第一次世界大戦後の講和条約により多額の賠償金を押しつけられたドイツでは、ハイパーインフレによってわずか5年余りの間に物価が1兆倍にまで跳ね上がってしまいました。これはつまり、ドイツ紙幣(パピエルマルク)の価値が1兆分の1に下落したことを示しています。このように、国際的な政府の信頼やお金に対する信用がなくなれば、お金はモノとは異なり価値の実体を持っていませんから、ただの紙きれに堕(だ)してしまうし、同じような事態は、最近でも世界のいくつかの国や地域で起こっています。しかし、その知識をいくら頭で記憶していたとしても、実際に自分のお金が紙きれ同然になるかもしれないという危機感を抱きながら日々の生活を送っている人というのはこの日本では稀(まれ)ですし、そんな心配のせいでお金を貯めるのは意味がないと考える人もほとんどいないわけです。むしろ、お金の土台にある信用という怪しげな不確かさは、人をお金に惹(ひ)きつける見えない力として機能していて、その力が結果的にお金の信用を支えているのです。

注2:例えば、小学生の子どもたちに「自分の夢や目標に向かって、生活や勉強の仕方を工夫する」ことを目標とすることを促し、それができたかどうかの反省文を書かせ、「好きでないことや苦手なことでも、自分から進んで取り組むことができましたか」という質問に対して、「よくできた」「できた」「少しできた」「あまりできなかった」の中から選んで丸をつけさせる。高校生になると、「卒業後の自分」「30歳になったときの自分」を想像して書くという課題がさかんに出され、そして、卒業が近づくと、小・中・高と積み重ねてきたキャリア・パスポート全体を振り返ったり、その内容を友人たちと共有したりすることで、自分の興味・関心や適性を把握できるようにする。以上はあくまで一例ですが、このような取り組みが、教育と職業を接続するためという名目で全国の学校の「総合」の時間などに行われているのです。(ただし、生徒たちに聞いたところ、ほとんど行われていない学校もけっこうあります。現場でも、さすがにこんなものやってられないということなのでしょう。)

注3:私は受験生を指導するときに「やった感」を出すモードに入ったらおしまいだとたびたび話します。受験生は苦しくなると、暗記も理解もまともにしないで、ただノートを作ってみたり、無策に問題集を解いてみたりという「やった感」を得るためだけの勉強をやり始めるのです。こうなると、もう受験生としては失敗です。最近は国や地方公共団体のあらゆる政策の中にも、この「やった感」で「映え」させる手法が大いに忍び込んでいるのではないでしょうか。

注4:先日、ある中1の女の子が、「パスポートを書いてたら、人生に軽く絶望した」と言っていました。子どもたちの欲望を根っこから喚起(かんき)するような働きかけなしに、子どもたちに十年後の自分を想像し、それに向かっての行動計画を立てよなどとむちゃぶりをしているんですから、どんなに想像力がある子でもお手上げです。マジメに取り組もうとすればするほど困惑してしまうし、結局のところ、大人の意向を内面化して褒(ほ)められるような内容を書くことに精を出すのが関の山でしょう。そうやって、子どもたちの夢さえ大人の意向に囲い込んで、かえって絶望の種を蒔(ま)いている。恐るべき所業です。

注5:坂口恭平『お金の学校』(晶文社・2021年)は、ひたすらお金の流れと気持ちよさについて書かれた本です。一読をおすすめします。

注6:夏目漱石『道草』五十七「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ」より。

注7:夏目漱石『道草』百二「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍(いっぺん)起(おこ)った事は何時(いつ)までも続くのさ。ただ色々な形に変(かわ)るから他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ」より。
 

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