ニッポンの万能なあかり
日本の住宅の照明は、部屋のすみずみまで均一に照らすものが久しく好まれてきた。天井の真ん中に鎮座する巨大なシーリングライトがその象徴である。
いわゆる高級マンションを除けば、賃貸物件の照明はいまも天井の真ん中に取りつけるものが一般的だ。ローゼットと呼ばれる照明器具の取付口が天井面にすでにあり、賃借人はその金具を目がけて好みの照明をセットする。嫌なら使わなければよいのだが、ありがたく使わせてもらっている人が大半だろう。借家歴30年の私も使わなかったことは一度もない。
部屋のすみずみまで均一に照らすあかりは、「部屋の用途を規定しない」という日本人独特の暮らし方にも都合がよかった。
部屋の用途とは、部屋で何をするのかという主な利用目的のことだ。現代における部屋の用途は平面図を広げればすぐに分かる。リビング、主寝室、子供室……部屋の名前と用途がイコールの関係で結ばれている。
ところが昔は、6畳間、8畳間など広さで呼ばれる部屋がいくつもあり、用途も定まっていなかった。畳の上にちゃぶ台を置けば、6畳間はいまでいうダイニングになった。ちゃぶ台を片づけてふとんを敷けば、同じ部屋が寝室になった。時間によって、季節によって、また家族構成の変化によって部屋の用途は適宜入れ替わったのである。
そんなフレキシブルな生活に、すみずみまで均一に照らすあかりはとても重宝された。天井の真ん中に照明があれば、室内はいつでもどこでも十分な明るさで満たされる。ちゃぶ台をどこに置いても、晩ごはんはきちんと明るくおいしく見える。夜の室内を明るくするだけなら、これほど簡易で実用的な方法もなかったといえる。
部屋の用途を規定しない暮らし方は、現在も一部にひっそり息づいている。たとえば、来客用の和室を一時的に寝室として利用するような柔軟性は、その一例として代表的なものだろう。
つい最近も、築5年に満たないお宅を訪ねた折、来客用の和室の隅にふとんが一組分積んである光景を目にした。奥さまの話では、いざ暮らし始めてみると夏場は1階の和室のほうが2階の寝室よりも風通しがよいと分かり、夏のあいだはご主人だけ和室で寝ることにしたのだという。和室の天井は昔ながらの竿縁天井。その中央には、白木の枠で囲われた真四角のシーリングライトが堂々とはりついていた。畳、ふとん、和モダンの照明という旅館でおなじみの構成は、ソファとベッドがあたり前になった現在でも、日本人の暮らしに違和感なく溶け込んでいる。
多灯分散式の蹉跌
専門用語でいえば、ひとつの部屋をひとつの照明器具でまかなう手法を「一室一灯式」という。対して、光の広がりや形状の異なる照明を何カ所かに分散して設ける手法を「多灯分散式」という。日本の家で多いのは一室一灯式、欧米で多いのは多灯分散式である。
もっとも注文住宅にかぎっていえば、近ごろは日本の家でも多灯分散式の照明が幅を利かせるようになった。このところ新築住宅の見学会で目にする照明は、ほとんどが多灯分散式だ。こう言ってはナンだが、インテリアやファッションには何の関心もなさそうな職人気質の工務店でさえ、メインとなるリビングやダイニングにはダウンライト、スポットライト、ペンダントライトなどを分散して今風の照明計画を意識している。
ただ、日本の多灯分散式は欧米のそれとは大きく趣が異なる。極端にいえば、ほとんど別物といってもいい。
本来、多灯分散式を貫くコンセプトは、「必要な場所に必要なあかりを」という生活に根ざしたきめ細やかな配慮だ。おかげで夜の室内は、適度な陰影や色味の変化が生みだされ空間の奥行きが深まる。ところが日本の多灯分散式は、それ以前に「暗がりをなくしたい」という意識が強く前に出てしまう。照明を複数設けてはいるものの、単に明るいだけなので全体としては薄っぺらな印象しか残らない。実質は一室一灯式とさほど変わらないのである。
それだけならまだしも、下手に多灯分散式を採用したことで、一室一灯式よりも騒々しくなった家はたくさんある。よく目にするのは、リビングの天井に埋め込んだダウンライトの数が多すぎて、ガチャガチャと鬱陶しい家である。照明をつければ刺すような光がまぶしく、のんびり落ち着いて過ごすことができそうにない。

住み手が模様替えをしてソファやテーブルの位置が変わったせいで、それまで見えなかったダウンライトの光源が直接目に入ってチカチカするようになった、という失敗談もよく聞く。これも、一室一灯式の家ではあり得ない事象だ。
また、ダウンライトの配置はよかったのだが、明るさを調節する「調光器」がデザイナーの意図を骨抜きにしたという失敗談も業界ではおなじみ。ダウンライトはその構造上、シーリングライトに比べて1灯あたりの照射範囲が狭い。光が届かない隅のほうには部分的に暗がりができる。そのため、昔ながらの均一なあかりに慣れている住み手は、調光器のダイヤルを明るいほうへ回して、足りない明るさを補おうとする。気づけばリビングは、ナイトゲームを開催中の野球場のように煌々としている。
ライティングデザイン歴20年の知人によると、照明に関して施主から受けるクレームの大半は「部屋が暗い」だという。そう言われると分かっていながら、わざわざ照明を暗めに計画する設計者はまずいない。結果、ダウンライトは「余裕をみて」多めにつけられることになり、万一に備えて主要な部屋には調光器が配備される。設計者が「暗い!」と怒られないために予防線を張りつづけていることも、日本の多灯分散式が本来のコンセプトからかけ離れていく原因となっている。
「調光器をつけると必要以上に明るくされるのが目に見えているんだけど、かといってつけないわけにもいかないんだよねぇ」
ある40代の工務店設計部主任は、バツが悪そうに苦笑いを浮かべていた。
東アジア人の宿命
生物学的な観点からいえば、日本の夜が明るくなるのは至極当然のことでもある。ご存じの方も多いだろうが、同じホモサピエンスでも明るさの感じ方は虹彩に含まれる色素の量でずいぶんちがうといわれる。東アジア特有の強烈な日差しに適応してきた私たち日本人は、色素の量が増加してサングラスなしでも平気な目に進化している。その代わり、日が暮れたとたん、あたりが急に暗く感じられてくる。
一方、色素の量が少ない欧米人は明るい場所にめっぽう弱い。知り合いのフランス人(碧眼)に聞いたところ、日本の夜は「明るい」を通り越して「まぶしい」という。夜、日本人家族の家に遊びにいって長居をしていると、照明のせいでだんだん気が立ってくるそうだ。
欧米の映画やドラマのワンシーンは、流行に敏感な人たちにとってインテリアの下敷きにもってこいだ。けれど、彼の地の照明スタイルをそのまま輸入しても、元来色素の濃い日本人にはすんなりと受け入れられない。部屋全体の照度が低く、部分的に暗がりもできる欧米流の多灯分散式は、東アジア人の目には端からフィットしないのである。日本の多灯分散式が迷走するのも無理はない。

以前、年間受注棟数30件ほどの地場工務店の社長に、
「照明をセンスよく見せるために、たとえばソファの横にフロアスタンドを置いて、天井には照明を一切つけない――みたいな欧米風の照明を提案することはないんですか?」
とたずねたところ、フッと鼻で笑われた。
「そんな提案、するだけ無駄ですよ。まず照明というのは明るくないとダメなんです。とくにお年寄りのいるご家庭は暗いのが苦手だから、なるべく明るめに設定するのが常識です。フロアスタンドなんて、場所を取るばかりでたいして明るくもないでしょう。嫌がられるに決まっています。もし、お施主さんのほうからフロアスタンドを置きたいと言われたら、こちらかのほうから『邪魔になるからやめたほうがいいですよ』と止めるでしょうね」
脱・明るいだけ
とはいえ、デザイン性を売りにしている設計者のなかには、明るいだけの照明もまたいかがなものかという問題意識が常にある。長年、欧米の住宅事例に触れてきた彼らの口ぐせは、「日本の夜は明るすぎる」。どうにかして、この惨状を良い方向に変えられないものだろうか。意識の高い設計者たちは日々模索している。そんな設計者の一人で、設計依頼が3年先まで埋まっているという某人気建築家は、あるとき私にこう言い放った。
「そもそも照明に関するクレームは、大しておそれる必要もないんですよ」
なぜなら照明には、慣れという心強い味方がついているからだと彼は言った。その自信を裏から支えているのは、おおむね次のような理屈である。
まず、照明というジャンルは設計側の提案が比較的通りやすいという大前提がある。提案といっても、数多ある打ち合わせ項目のなかから照明だけを取り上げて、ああしましょうこうしましょうと熱心にやり取りするわけではない。大半の設計者はいつもルーティーンで使っている照明器具をいつもどおりに配置して、こんな感じでいかがでしょうかと相手に投げかけるだけだ。
それでも施主の多くは、最初の提案をほぼそのまま受け入れてくれる。なにしろ現時点で彼らが住んでいる家は、天井の真ん中に蛍光灯が張りついているか、ペンダントライトがぶら下がっているか、たいていはそのどちらかなのだ。目の前にダウンライトやスポットライトを配置したリビング・ダイニングのパースを広げられると、それだけで手を叩いて舞い上がってしまう。
なおかつ照明には、当初は違和感があってもすぐに慣れてしまう、という設計側にとってなんとも都合のよい側面がある。昼白色、電球色といった色温度の変更などはその最たるものだ。仮にリビングの照明が、それまで慣れていた青白い寒色系から赤っぽい暖色系に変更されたとしても、新しい色温度に住み手が慣れるスピードは驚くほど早い。ことによると、以前とはちがう色に変わったことに気づかない人すらいる。
「そこに、照明ならではの抜け道があるんです」
全身黒づくめの建築家は、自信たっぷりの表情でそう述べた。
アトリエ建築家の深謀遠慮
彼の照明計画はとてもシンプルだった。細かいことをいえばいろいろあるのだろうが、基本的には「リビングの照明だけは意識的に照度を落とす」。それだけである。実際に見学したわけではないが、おそらく、すみずみまで明るい家に慣れた施主には、あきらかに暗いと感じられる照明計画なのだろうと思う。欧米流とまではいかないが、一般的な住宅よりもはるかに深い陰影に包まれているはずだ。
いかにもクレームになりそうな計画といえる。だが、彼はその全貌を施主には一切伝えない。事前に説明すればその場で猛反対にあうか、せめて調光器くらいはつけてほしいと懇願されるか、そのどちらかが目に見えているからだ。
はたして、新しいわが家に引っ越してきた施主一家は、日が落ちてリビングのあかりを点けた瞬間、あまりの暗さに言葉を失う。
「なんだかリビングのデンキが暗いようなんです。明るくなるように調整してもらえませんか」
すぐさまご主人から連絡が入る。
ところが、彼は動かない。
「いまちょっと忙しいので、そのうち、え、まあ、では、なるべく早めに……」
ごにょごにょ言いながら1週間くらいは平気で放っておく。
すると施主は、だんだんイライラしてくる。あの建築家、訴えてやろうかという気になってくる――と思いきや、現実の展開はおおむねこの逆になるという。
住み手は毎晩暗いリビングで過ごしていると、しだいに依って立つ明るさの基準が揺らいでくるらしい。そして、こう思いはじめる。
「そういえば、リビングの明るさってどれくらいが適切なのかなぁ。自分はどれくらいの明るさだったら満足するのかなぁ。引っ越し直後は暗いと感じたけど、むしろ以前の家が少々明るすぎたのかも……」
照明に対する独自基準がすっかりリセットされた頃、建築家はふらりと現れる。
「で、その後いかがですか?」
「いや、これはこれでいいような気がしてきました」
たいていの人は1カ月もあれば暗いリビングに順応する、というのが彼の経験則らしい。
「でも、どうしてそんな危なっかしいことをするんです?」
クレーム回避を最優先に掲げる設計事務所が多いなか、あえて命知らずの綱渡りに挑む理由をたずねると、どうしてそんな分かりきったことを聞くのかという顔で、彼は事務的に答えた。
「だって、そうでもしないと日本の家はすみからすみまでバカみたいに明るくなるじゃないですか」
私が設計者なら、やはり「保険」として調光器くらいはつけておく気がする。しかし彼は、住み手を逃げ場のない箱の中に無理やり封じ込め、あえて照度を下げたリビングに力ずくで順応させる方法を採る。たとえクレームがきても相手にしない。結局はそれが、住み手にとって心地良い住環境を提供する近道になると信じているのだ。
むろん、いつもうまくいく保証はない。ただ、照明には良くも悪くも慣れという大きなアドバンテージがついてくる。東アジアの日差しに適応してきた私たちが、ぎりぎり許せる範囲で行われるスパルタ式の照明計画。日本の夜を落ち着かせるには、こういうやり方もある。