私たちの生存戦略

第一回 もうひとつの世界

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

幾原邦彦監督作品における「もうひとつの世界」
そもそも幾原邦彦監督作品は、常に「もうひとつの世界」と共にあるものだった。
たとえば『少女革命ウテナ』(1997年)は、革命を掲げる物語だった。
まるで棺の中に閉じ込められるようにして、他人からある役割を押し付けられ、その意思を顧みられず、自分自身でも自らを把握することが困難になってしまったある少女が、この物語のヒロインだった。彼女は自分自身になるために、囚われてやまない自分自身を解放するために、根本的にこれまでとは異なる仕方で存在することが必要だったのだ。
存在の根本的転換――それは「革命」とさえ表現されるような事態である。
もちろん、具体的な政治体制の転換ではない、精神的な変化を「革命」と呼ぶのは、いささか大げさに思えるかもしれない。けれども誰かを変えること、自分を変えることがいかに難しいかを知っている人であれば、このことが「革命」と呼ばれる訳も理解できるはずである。
実際、人が最も逃れられないものとは自分自身なのである。
服装や外見を変えることはできる。住む場所や職業を変えることもできる。
けれども、私が私であることからは決して逃れられない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
まるで自分という名の棺=箱に閉じ込められているように――こうした根本的な「自分」の逃れがたさを常なる主題としてもつ幾原監督作品は、だからいつも「もうひとつの世界」を描いていた。自分が既に存在してしまっているこの世界ではもう決して逃れることができないから、そうではない別の世界を、別の自分を夢見ずにはいられなかったのだ。
たとえば『少女革命ウテナ』では、「革命」と呼ばれるヒロインの解放がなされた後、彼女を解放せしめた少女は消えてしまっていた。その少女の記憶も周囲の人間からは失われるのだ。あたかもひとつの世界から別の世界に移行したかのように。

そして『輪るピングドラム』(2011年)が描いたのは、まさしく自分という箱がいかに作り出されるか、その箱の中に閉じ込められる恐ろしさそのものであった。
物語は「家族」を主題としている。
私たちは生まれ育った環境に、親に、家族に否応なしに影響され、形作られる。自分では決して選ぶことのない諸条件こそ、「私」を作るものなのだ。
自らの諸条件に満足できればもちろん問題はない。
けれども、たとえば親に愛されなかった時、自分が自分であることを肯定できなかった時、人はなぜ自分が生きているのかを常に証明しなければならないような焦燥感に駆り立てられる。単にそこに存在しているだけでは不足に感じられて、たとえば「良い長男」や「良い妹」を必死で演じたり、非合理的な妄想に囚われたりする。
棺から外に出るだけでは足らない。自分を縛る様々な規範から解放され、「自分自身」になるだけでは解放されない。自分という存在の原初にある「家族」こそが問題なのだから、解放されるためには文字通り、運命を変えなければならないように思われるのだ。
自分という箱そのものを破壊しなければならない――そんな状態を描く『輪るピングドラム』では、もはや革命さえ期待できない。
だから物語は自己犠牲による「存在の転換」を描いていた。
最終的に、主人公らは『少女革命ウテナ』と同様、ある解放を成し遂げたのちにまた人々の記憶から失われてしまう。物語では愛されなかった記憶に囚われることからの解放も描かれてはいるものの、やはり「もうひとつの世界」に行かずにはいられなかったのだ。