私たちの生存戦略

第一回 もうひとつの世界

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

この世界で、自分自身を生きる
だが自分の逃れがたさを極限まで描いたこの物語の次作、『ユリ熊嵐』(2015年)は、『輪るピングドラム』の「その先」を描くものであった。
物語のヒロインである銀子は、一度は愛され救われた記憶を持つ人物である。
ただ彼女を救った当の人物は、彼女の記憶を失っていた。愛する人に忘れ去られた後の生を、この物語は描く。要するにそれは世界が革命された後、運命が乗り換えられた後に、改めて「自分自身である」とはどういうことかを探る試みであったのだ。
自らの存在を肯定できなかった人物は、一度救われたとしても、救ってくれた当の人物にひどく執着し、バランスのとれた愛情関係を築けないことがままある。愛されたい、愛を独占したいと願うあまり、自分の欲望ばかりが先立ってしまうことがあるのだ。
だから『ユリ熊嵐』が主題としたのは、ひとりよがりではない仕方での他者との関係を学ぶこと、自分自身であることとエゴイズムの区別をつけることであった。
銀子をめぐる物語の主題は、一度救われた後にも様々に困難が存在する人生を、続いていく日々を、いかに生きるかという問題である。銀子は最終的に、エゴイズムの根源である「欲望」を手放し、自分とは根本的に異なる――まるで壁に隔てられているかのようにさえ感じられる――他者との関係を手にする。共に生きることを学ぶのだ。
ただここでも、物語は「もうひとつの世界」を手放すことはしなかった。銀子とヒロインはある扉を開き、その向こう側へと行くかのように表現されていたのである。

けれども『さらざんまい』(2019年)で、いよいよ事態は新たな展開を見る。
物語の主人公は当初、箱を常に持ち歩く人物として描かれる。箱はもちろん、この監督の作品においては、自分自身からの逃れがたさを象徴するものである。
だから物語の中盤で、早くも主人公が箱を持ち歩く必要を感じなくなったことは、彼が自分であることを受け入れられたことを示している。ついに問いの中心点が変わったのだ。
さて、自分を受け入れる過程は、隠しておきたいような秘密も含めて他人に自らを曝け出すことを通じて達成されていた。自分をさらけ出すことは、物語では「さらざんまい」なる用語で表現されている。身も心も他者とつながることなのだと。
要するにそれは箱から出て、他者と関わることなのだ。
この意味で『さらざんまい』は、壁を超えて他者と関わるまでを描いた『ユリ熊嵐』のさらなる「その後」を描くものである。

そして『さらざんまい』の特異な側面とは、幾原監督作品に常に存在していた「もうひとつの世界」そのものと対峙していることにある。
これまでの作品に常に存在していた、自己犠牲を通じて「もうひとつの世界」へと至り、自分自身を変えること――その変容過程そのものが、『さらざんまい』では反省的に問われる。
自分を他者のために投げ打つその行為は、まさに自分という箱から出る無二の手段である。だから自分自身からの逃れがたさに対する鬱屈は、幾原監督作品ではしばしば「自己犠牲」を究極的な脱出の手段とみなすことに結実していた。
けれども『さらざんまい』は「自己犠牲なんてダセえことすんな」と叫ぶ少年が描かれ、もうひとつの世界へ移行し、周囲の記憶から失われてしまうことも拒絶される。それは他者とのつながりを失うことに他ならないのだと。
自分の居場所なんてどこにもない、と感じていた少年が、だが「それがどうした」と叫ぶ場面をこそ『さらざんまい』は描くのだ。
罪を犯した少年は「もうひとつの世界」に行くのではなく、少年院に行く。少年院の描写は極めて繊細に、リアリティをもって描かれている。罪はこの現実で、自分自身で贖うのだ。

また『さらざんまい』では、エンディングで「実写」の映像が用いられてもいた。
全てが描かれたもので成り立つはずのアニメーションで、現実の映像がそのままに存在している。ほとんど禁じ手であるような実写映像の使用は、『さらざんまい』が何に別れを告げたのか、何を描こうとしたのか、その覚悟を明快に示している。
それはこの世界で、この現実で、自分自身を生きることへの肯定に他ならないのだ。