もしも家を建てるなら

第十八回 建築家っぽさに気をつけろ
いいかげんが「好い加減」になる住宅【プランを描く⑦】

暮らしのアベレージを上げる秘訣を住宅のプロたちと探るこの連載。過度な理想が快適さを妨げたり(こんなはずでは!)、ちょっとした工夫で心地よさをアップしたり(えっ、こんなことで!)、ふつうや常識の功罪を見直したり(そうだったのか!)など、意外な視点や鋭い指摘に毎回ハッとして、なるほどなぁ~と唸りました。もちろんこの最終回も、ベテラン建築家に設計に滲む思想、幸せになる家のアイデアをうかがいますよ。

 住宅設計歴40年以上のベテランと話していると、「結局いちばん大切なのは……」「要するに住宅を設計するということは……」と、キャリアを重ねたからこそ見えてくる答えのようなものを聞かせてくれることがある。建築家・増田奏さんも、そんな「正解」を教えてくれる大先輩のひとりだ。

 増田さんは早稲田大学で建築を学び、住宅設計の第一人者・吉村順三(1908―97)のもとで実務を修業した。独立後は主に住宅の設計業務に勤しむかたわら、関東学院大学で数十年にわたり学生たちに教えてきた。

 3年前、神奈川県の海岸沿いに延床面積10坪の平屋を建築し、いまはひとり暮らしを楽しんでいる。今年古希を迎えた増田さんの平屋にうかがい、家づくりの本質とは何かをあらためて聞いた。本連載の最終回は、住宅設計の大ベテランが語る設計論で締めくくりたいと思う。

増田さんの自邸。本人は「安普請です」と謙遜するが、小さいながらも快適性は抜群で生活上の過不足もない。居心地の良さにひかれて、友人・知人、教え子たちが繰り返し訪ねてくる。私もそのひとり

掃き出し窓と階段に漂う「いかにも」

 料理が得意な母親でしたが、反面、ぜんぜん片づけられない人でした。

 僕も、物は出し放しにしておきたいほうなんです。

 そういう環境で育ったものだから、吉村先生の事務所で働きはじめると、もう何から何まで感動しました。住宅の設計はもちろんですが、家具も設計すれば照明も設計する。暮らしに関わるありとあらゆるものを一からきちんとつくるんです。

 収納のアイデアも、所員どうしで競うように出し合っていました。一見フラットな壁のように見えるけれど、じつは奥に収納が隠れている仕掛けなんて、考えると楽しくて時間が経つのを忘れてしまいます。「設計の仕事はこうでなくちゃ」と目を輝かせて図面を描きました。休日返上で朝から晩まで図面を描いていても、何の苦痛も感じませんでした。

 若い建築家たちから、「自分が設計した住宅を見てアドバイスしてほしい」と頼まれるので、いまでもあちこちに出かけています。そのたびに、自分の若い頃を思い出すんです。「あぁ、いっぱい図面を描いているな」「楽しそうに設計しているな」と。

 でも、そこに大きな落とし穴がある。設計の楽しさだけにとらわれてしまうと、本当は住宅を設計するのが目的なのに、しだいに図面を描くのが目的になり始めます。手段が目的に変わるというアレです。そうなると、わざわざやらなくてもいいことまで、そうするのがあたり前のような顔をしてやるようになる。自分も若い頃はそうだったし、いまの若い建築家にもそういう人はたくさんいます。

 たとえば、南面の大きな掃き出し窓を壁の中にきれいに引き込んで、フルオープンにできるディテールを考えるとか、ですね。建築家本人は、室内と屋外がシームレスにつながって美しいだろうと自画自賛するわけですが、その掃き出し窓を年に何回全開にします? その手の、いかにも建築家がやりそうなことって、いったん落ち着いて考えたほうがいいでしょう。

「いかにも」な設計は、階段にもよく見られます。

 子供部屋が2階にあるとします。夕方、家に帰ってきた子供が玄関で靴を脱ぎ、リビングを横目に見ながら階段室の階段をのぼって自分の部屋に入っていく。これを昔ながらのAパターンとします。一方、玄関で靴を脱いだ子供がいったんリビングに入り、リビングの中にある階段をのぼって自分の部屋に入る。これをBパターンとします。いわゆる「リビング階段」と呼ばれるもので、最近の若い建築家は広いリビングの中に美しくデザインされた階段をモニュメントのように配置するのが得意です。

 さて、この階段AとB、どちらを採用するかで、親子の関係、暮らしのあり方、住まいにおける公・共・私の扱いは決定的に変わってきます。そこを建築家はどのように考えたのか? 美しいリビング階段をつくる人たちに僕はまずそれを聞いてみたい。

 しっかり考えたうえで設計された住宅は、階段を含めた動線のあり方や間取りの構成がじつに巧みです。「あぁ、この家で暮らしていく家族は幸せだろうな」と見学している僕までうれしくなります。ところが、図面を描くのが目的になっている人は、「かっこいい建築写真が撮れればそれでいいや」という下心ばかりが透けて見えて、階段だけが妙に浮いてしまう。設計の関心が階段のデザインだけに寄っているので、住宅全体の設計がおざなりになって、見た目が良いだけの家しかつくれなくなるのです。

 

「住むための機械」が伝えたかったこと

 おそらく建築家のなかに、上手な「やり方」さえ寄せ集めれば、住宅全体をうまく設計できるはずだという過信があるのでしょう。その証拠に――というわけでもありませんが、近ごろは書店の建築書コーナーに行くと設計のノウハウ本ばかりが並んでいます。「美しい階段のつくり方」「快適な住まいのつくり方」……その種の本ばかりが平積みになっています。

 もちろんノウハウも大切ですが、設計の「やり方」を自慢するなら、同じくらいの熱量で設計の「考え方」も勉強してほしい。階段を設計するなら、階段が住まいのどこにどう配置してあると家族に対して担う役割が変わってくるのか、そこも一緒に考えてほしいんです。

 学生時代に吉阪隆正(1917―80)の講義を聞いていたら、何かの拍子にコルビュジエ(1887―1965)の話になりました。彼はコルビュジエの弟子だったから、ときどき思い出話を聞かせてくれたのですが、その日の話はいまでもよく覚えています。

「コルビュジエが、『住宅は住むための機械である』(La maison est une machine a' habiter)という言葉を残しているけれど、この言葉はどうやら誤解されているようです。ほとんどの人は『機械』という単語に衝撃を受けて、産業革命以降の機械文明と住宅との関係について考えたりしたようですが、コルビュジエが力点を置いていたのは『機械』のほうではありませんでした。彼が伝えたかったのは、『住むための』のほうだったんです」

「ナルホド!」と思いました。いまでも、とても深い言葉です。

 住宅の設計とは、その家の住み手が「住むために」、あるいは「暮らすために」どうあればよいかを考える行為でしょう。そこに絶対的な答えはありませんし、住み手の個性もさまざまですから、建築家が自身の生活やそれまでの設計経験と照らし合わせながら、一軒、一軒考えていくしかありません。

 大げさにいえば、建築とは何か、住宅とは何か、家族はどうあるべきか。昔から議論されている住み手のプライバシー・コミュニティ・アイデンティティの問題などを、いまの時代ならどうプランに落とし込めるのか。そういう根本的な問題を考えながら、その人なりの答えを導いていくことが住宅を考えることだと僕は思います。

 でもいまは、そういう話はあまり流行らないみたいです。このフローリング材は何という樹種で厚みが何ミリで床暖房に使えるとか使えないとか。断熱材は何キロのものを何ミリ入れたら断熱性能が上がるとか上がらないとか。住宅の見学会に行くと、建築家からはその手のテクニカルな話ばかりが話題にのぼります。どれもこれも、詳しい人に電話して聞けば済む話なんですけどね……。

 

建築家っぽい人、建築家っぽくない人

 僕にとって吉村先生は、吉村事務所のなかでいちばん「建築家っぽくない」人でした。

 先ほども言いましたが、若い頃は図面を描くのが楽しくて仕方がなかった。アイデアが次々と湧いてくるので毎日夢中になって描いていたものです。でも、夢中になりすぎてあれもこれもと図面を描いていると、先生がすーっと近づいてきてこう言われる。

「増田くん、そんなモノを描かなくても何か出来合いのものがあるんじゃないのかい?」

 先生は既製品のことを「出来合いのもの」とおっしゃいましたが、要するに、世の中にすでにいいものがあるのなら、わざわざ図面を描いてつくらなくても、それを使えばいいじゃないかというわけです。いたってふつうの考えですよね。意外に思われるかもしれませんが、先生はアルミサッシを使うのだって全然平気な人でした。

 ところが、事務所の先輩のなかにはそうした姿勢に否定的な人もいました。彼らは、「建築家が設計する住宅というものは」というポリシーを勝手に掲げて、それに従って設計することが建築家の仕事だと信じていたんです。

 あるとき僕は、そんな先輩に非難するような目で詰め寄られたことがあります。

「増田くん、どうして既製品なんか使うの?」

 先輩の手には、僕が吉村事務所を独立して最初に発表した箱根の別荘が掲載された、建築雑誌が握られていました。彼はその別荘に使用していた既製品の横引きシャッターを咎めたんです。安易に既製品を使うような設計は建築家の仕事――とりわけ、吉村事務所OBの仕事としてふさわしくないという口ぶりでした。

 これなども、いかにも建築家っぽい振る舞いと思いませんか?

 いまでも鮮明に覚えていますが、あるとき吉村先生はひょこっとこんなことを言われました。

「僕はね、『この人はこの家のどこを設計したのかな?』ってところまでいきたいんだよ。クライアントからそう思われる設計がいちばんいい設計なんだ。そこまでいければたいしたもんだ」

 建築家が、ここを設計しました、あそこをデザインしましたと叫びたい気持ちはよく分かりますが、それが前面に出すぎた住宅は「いかにも建築家が設計したような」住宅になってしまいます。むしろ設計の跡を感じさせないほうが、建築設計にとっては大切なことなんだと、吉村先生は言いたかったんですね。