私たちの生存戦略

第二回 家族ごっこ

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

高倉晶馬の「家族」ごっこ
さて、高倉家の唯一の実子である晶馬は、最も両親に批判的な人物である。
彼は多くの人を死に追いやった両親の罪を、誰より重く受け止めているように見える。
たとえば彼は、何の罪もない陽毬が病気に苦しんでいることを、彼は「僕たち家族に下された罰」だと考えるのだ(第十三話)。
最も罪のない者に罰が下ってしまう、それこそまさしく罰の理不尽な厳しさを象徴するものなのだと。両親のしたことを考えたらどんなことをしたって償いきれないのだから、と。
もちろん、晶馬の考えは合理的とは言えない。
彼は「加害者の子ども」であるという事実の逃れがたさに苦しめられるあまり、陽毬の病など一見無縁の出来事さえ全て罰のように感じられてしまう、そんな自罰的な思考回路にはまり込んでしまっているのだ。
このことは、彼こそが陽毬を高倉家の子どもとして招き入れたことに端を発している。陽毬を自分同様「加害者の子ども」にしてしまった、その罪に彼は苦しんでいる。

冠葉や陽毬と違って、晶馬が両親を理想化することはない。彼は実子であり、おそらくだからこそ両親への過度な理想化もない。
その代わり、両親の罪に対する罪悪感が三人のうちで最も強いのだ。
実子である晶馬は、誰より「加害者の子ども」なのだから。だから彼は「高倉家の罪は僕の罪、僕だけの罪なんだ」と言うのである(第十九話)。
彼は良い兄や姉や妹になる必要を感じていない。
だから彼だけが、「桃果ごっこ」に囚われてやまない苹果に対して、「君は君。他の誰でもないじゃないか」と言える(第十一話)。冠葉も陽毬も言わなかったそれを晶馬だけが言えるのは、彼に実の両親が存在し、愛された記憶を持つ人間だからこそである。
けれどもまさにそのために、彼は「加害者の子ども」以外の何者にもなれないことに苦しんでいる。
そんな彼は、兄妹以外の全ての人間は「加害者の子ども」として一方的に彼を断罪する存在であると決めてかかっていた(第十三話)。
彼にとって残された唯一の存在は兄妹という「家族」に他ならない。
だから彼は必死に「家族」を保とうとしていた。兄や妹に「良い兄」「良い妹」を演じさせてしまっても。苹果に「あなたは自分の都合の良いように、表面的に家族の形を取り繕ってるだけ」だと糾弾されても(第八話)、なお。


きっと何者にもなれないお前たちに告げる――これは『輪るピングドラム』という作品で繰り返される、印象的なフレーズである。
それはまさに、物語の登場人物にふさわしいものに思える。
何しろ物語に登場する誰もが、家族に囚われ、必死に「何者か」、たとえば良い兄に、良い妹に、失われた姉になろうとしているのだから。あるいは「加害者の子ども」以外の「何者にもなれない」ことに苦しんでいるのだから。
どうすればこの運命から逃れられるのだろう。逃れることなど可能なのか? 出口なんてあるのか? あるとしたらどこに?