私たちの生存戦略

第四回 自己犠牲と救済

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

循環する自己犠牲
どうしてこれほどすれ違うのか。
それは過去の呪いが、その影響が、あまりにも強いからである。自分自身の根源を形成するものに他ならないからである。そこから脱出するためには、本当の意味で根本的に、存在の仕方を変える、、、、、、、、、必要があるからである。
さて、物語の中で、最も早い段階で呪いから脱出する人物は、荻野目苹果である。
家族の離散に苦しみ、「桃果」ごっこに邁進していた彼女は、晶馬に「君は君」だと言われ、さらに彼女を庇って車にはねられる晶馬の姿を見て、呪いを解かれる。自分はいなくなった方がいい、自分自身であるよりは桃果になった方がいいのだと考えていた彼女は、晶馬がその身を犠牲にして彼女を守ったことによって、初めて自分であることを肯定できた、、、、、、、、、、、、、、、、のだ。
自己犠牲をただ肯定することも、救済の究極的様式とすることも、もちろん危険が伴う。
だが、自分が存在していることそのものが罪のように感じられている時には、自己犠牲による救済が罪を贖う最も効果的な手段であることも、また確かである。自己の消去に至るような存在することの罪悪感は、まさに存在を投げ出すことによってこそ浄化されるのだ。
だから自らの存在の根本を蝕む呪いにかかった人々を、愛を受け取り損ねる人々を描くこの物語では、自己犠牲のみがよく循環するものになるのである。

苹果の次に呪いから抜け出るのはゆりであり、多蕗である。
ゆりは桃果を失った悲しみを忘れられない。
だが、その悲しみをもって、自分にトラウマを与えた「家族」を別の形で再創造しようとしていた。同じ悲しみを共有する多蕗と「家族のふり」から始めることを考えていたのだ。
復讐心に身を焦がす多蕗によって、ゆりの計画は一度は頓挫するものの、彼女を庇って多蕗が刺されたことで、その可能性は生き延びる。
桃果の自己犠牲によって贖われながら復讐に囚われてやまなかった多蕗は、今度は自分自身が「自己犠牲」を成し遂げることで、ついに解放されるのだ。
桃果を失ってなおも生き続けなければならない現実を恨み続けていた多蕗は、その身を呈した犠牲ののち、やっとわかったのだと言う。たった一度でもいい、誰かの愛してるって言葉が必要だったのだと。愛の記憶さえあれば、たとえ全てを奪われたとしても、「愛された子どもはきっと幸せを見つけられる」のだと(第二十四話)。
そして祖父を憎んでいたにもかかわらず、祖父と似たような口癖を持つ真砂子もまた、自己犠牲によって脱出を果たす。冠葉のために自らを犠牲にすることによって、呪いを転換する方法を発明するのだ。
家に呪われていた彼女は、かつて自分を犠牲にして救ってくれた冠葉のために囮になり、「今度は私の番」だと言う。冠葉を守るために立ちはだかる彼女が最後に吐く言葉は、「早くすり潰さないと」である。引き継がれる呪いを最も象徴していたその口癖は、自己犠牲によって、呪いではなく愛する人を守るための覚悟を示すものへと変換された。
要するに自己犠牲とは、呪いに囚われてやまない自らを誰かのための救済へと変換する方法、根本的に存在の仕方を変えるための方途だったのだ。