私たちの生存戦略

第四回 自己犠牲と救済

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

ペンギンとは何か
循環しない救済から循環する自己犠牲へ――呪いの輪から、愛の輪へ。
さて、愛を受け取り損ねていた人々がついに謎めいていた「ピングドラム」の具現化を見る時、それはリンゴの形をしていたのだった。
このリンゴは、各々の檻の中に閉じ込められ、このままでは死んでしまうという、極限状態に置かれた冠葉と晶馬のエピソードを通じて出現する。檻に閉じ込められ、飢えと渇きに苦しむ幼い二人のうち、冠葉の檻にのみ、リンゴが見つかる。それを知った時、晶馬は生き残るのは冠葉だ、冠葉が選ばれたのだと言う。そして自分はおそらく死ぬのだろうと。
物語に通底する「選ばれる/選ばれない」という問題は、もちろん、愛される/愛されないという問題である。愛される人がいる一方で、愛されない人がいる。選ばれる存在の裏側には必ず選ばれなかった存在があるのだ。この意味で、愛は常に人を分け隔てる。
そしてそれが親から子どものような、圧倒的非対称の、存在の原初に関わる場で生じた時、愛は生き残る子どもと生き残れない子どもを分け隔てるものにさえなり得るのである。
要するに檻の中のリンゴをめぐる冠葉と晶馬のエピソードとは、このような「愛され生き残る子ども/愛されず生き残れない子ども」という世界の余りある残酷さを抽象化し、象徴的に表現するものであった。
実際、この物語は常に、愛される/愛されない、選ばれる/選ばれないという、残酷極まりない二分法にあまねく支配された世界での、様々なる生存戦略を描いていたのである。

そしてだからこそこの物語には、ペンギンが必要だったのだ。
物語には一貫して、愛らしいペンギンが登場していた。言葉を喋ることもなく、とりわけ理由も説明されないまま主要キャラクターの脇にはペンギン達が存在していた。
ペンギン達の行動は、そこで起きている出来事を象徴的に表現しているように見える場合もあるが、多くの場合は単に「いる」だけである。
単にそこに存在していて、特に物語上の意味が負わされているようにも思えない振る舞いをしている。どれほど息が詰まる場面でも愛らしいその姿が登場している。
この物語にペンギンが登場することは、どれほど私たち視聴者を救っていただろう?
あの「選ばれる/選ばれない」という二分法に苦しめられる人々が描かれ、登場人物達はみな自らの存在証明をしなければと焦燥感に駆られている物語で、あのペンギン達はどれほど私たちの心を和らげただろう。
ただ単に「そこにいるだけでいい」のだとは到底思えずにいる人ばかりが登場する物語で、まさしくペンギン達は「そこにいるだけでいい」を体現する存在であったのだ。
二分法に囚われてやまない私たちは、しばしばそこに意味を見出そうとしてしまう。ペンギンが何を象徴しているのか、考えようとしてしまう。
でもそうではないのだ。意味なんてなくていいのだ。
ペンギンはむしろ、そんな二分法に囚われた思考そのものを解そうとするものであった。存在の証明なんてしなくていい、そこにいる、ただそれだけでいいのだと。