蛙の声が近くなってきた。腕時計の針は午後九時をさしている。
暗闇の中で輝くものは、空の模様をうつした川だった。
光る方にぼんやりと目をやっていると、護岸工事の施されていない川岸に、雛人形のような顔の白いものが草を鳴らしているのが見えた。
(人為!)
思わず声をあげそうになった紙子の頭に手を置き、美津子が白麒を取り出そうとした瞬間、人為の体が宙に浮き硬直した。その奥から小さな虎に似た顔が現れた。
耳先は丸く、枯れた花のようにめくれている。獰猛さをたぎらせた太い手足は頑丈で短く、顔つきに野生の超然さがある。横に立てば、紙子の腰くらいの高さまであるだろう。
「……驚いたな、いくら自然豊かな玉笛とはいえ、山猫までいるなんて」
美津子が小さく嘆息する。
「獣師が逃したものが、ここまでやってきたのか。それとも、『ネズミ』取りなのかな」
鳴き声は、ふつうの猫よりも蛇に近いと思う。鉄独楽が遠心力に震えながら鳴るような音を出し、鉤針型の太い爪にかけながら、紙をちぎるように人為を裂いていく。細かくちぎってから、素知らぬ顔で食い始めた。
鉤爪を丁寧に舐め、人為が跡形もなくなると、山猫は川面に顔をつけた。
ふと、紙子と山猫は見つめあった。
金色の瞳。人為の血が水に濡れ、小さな顎には赤い水滴がついている。
生温かな風が吹いた。
その瞬間、紙子と美津子は空高く飛び上がっていた。
美津子が白麒を取り出し、鎮守の森の上へと飛んだのだ。
「あれに襲われたら怪我するね。ひょっとしたら、人為よりも怖いかもよ」
紙子は生まれて初めて、生身の体で空を飛んだ。
悲鳴は、山から吹きおろす突風の中にかき消された。
(つづく)