ちくまプリマー新書

浮かびあがる「みえなくさせていく現代社会」という問い
『ウンコの教室 環境と社会の未来を考える』(湯澤規子著)書評

恥ずかしい、臭い、きらい、だけじゃない!! ウンコの魅力が輝く『ウンコの教室 環境と社会の未来を考える』を、哲学者の檜垣立哉さん(大阪大学教授、著書に『食べることの哲学』『ベルクソンの哲学』など)に読み解いていただきました。(PR誌「ちくま」9月号より転載)

 すでにちくま新書から『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか――人糞地理学ことはじめ』という著作を刊行している地理/歴史学者による「ウンコ」関連の第二弾的著作。筆者は「衣食住」という「生物」としての「人間」にとって不可欠な側面に「便」を加えて、「衣食住便」を提唱する。内容は人間と「ウンコ」との個人的な側面の複雑な関係、トイレをめぐる各国諸事情、そして環境・社会のなかでのウンコと食物をめぐる循環にかんして、さまざまな面から接近する。私にこの書評がまわってきたのが『食べることの哲学』の作者であるためということである。「食べること」を考えるなら「食べたもの」を「出すこと」も、必然的な考察の範囲内だろう。それはその通りで、筆者ののべる「ウンコ」から「食」へという、普通考えるのとは逆向きのヴェクトル、近代化のなかで失われていった排泄物利用循環をどうやって構築し直すのか、ということがひとつのおおきな主題になっている。

 きわめて個人的にいえば、私は競馬や賭博の哲学の専門家!でもあるので、筆者の「馬術部」やJRA(日本中央競馬会)、また美浦トレーニングセンターまわりの「馬糞」にかんする記述についてはおおいに関心をもった。ここに突っ込もうかとおもったが、それはまたそれであまりにマニアックになるのでやめておく。

 さまざまに考えるべき問題がこの本に詰まっている。学校のトイレをどう設計するか、LGBTQの時代においてオールジェンダートイレはどうなるのか、アメリカにいったら(私の知るかぎりでのヨーロッパにおいても)トイレは大抵考えられないほど開けっぴろげで、まして音を消すなどという最近の日本の最新型トイレシステムなど考えられもしない。いうまでもないことだが、トイレを「閉鎖空間」にしてしまうとむしろ「危ない」からである。「トイレが恥ずかしい」というのは一面普遍的だが、本書冒頭のインドでの外での排泄と同じく、日本はこの点かなり偏った文化圏であるだろう。ちなみに私は八〇年代の中華人民共和国にいったことがあるが、座ってするトイレは腰の部分までしか覆いがなく、まわりで同じく排泄している人も丸見え――まあ男子の小用を考えれば同じだが――であることに驚いたことをおもいだした。日本のトイレにまつわる「過剰」なまでの「神経質」「潔癖」さは一体何なのかと、世界をみればおもう部分がある。

 この点について「食」との連関から「便」というテーマにつながる重要な問題で、本書が踏みこんで欲しかったなとおもう主題をひとつあげておく。これは上記に関連するのだが、食が快楽と性と「強く」かかわっていたように、排泄についてもそういう部分はあるだろうということである。上記のようにさまざまなトイレの「形態」があるとはいえ、排泄の場はやはり「隠す」。無論それには、伝染病など衛生的な側面がおおきいことは事実だが、そうであれやはり「隠す」。本書が「ウンコ」を表にだそうとすればするほどそれを「隠し」、どんどん「みえなくさせていく現代社会」という逆の問いが浮かびあがってくる。そしておそらくは(もちろん広くはどこにでもあるだろうが)日本では固有の「陰湿さ」をともなった「盗撮・盗写」といった犯罪が、何故かくもおおきな問題群になるのかという、「性」と微妙にかかわらざるを得ない部分をやっぱり読みたい感じもする。まあ、ピエル・パオロ・パゾリーニの『ソドムの市』のスカトロジーなどをみると、これは日本の盗撮を超えたもっと根深い「欲」とつながっているとも想定され(加えていえば、この話を展開するためには、本書でも冒頭にとりあげられている幼児の振る舞いについてのフロイト等の精神分析が絡んでくるだろうが)、この主題はおもいきって「思想系」の七面倒な議論にふれるので、本当は筆者に触発をうけたこちら(哲学)側に課題がなげられたのかなとおもう。



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