今思えばあの中学のときに引っ越しをしていても、もしかしたら新しい広い家で同じことをしていたのかもしれない。でもその頃の私にとって、恵比寿を離れることは「鈴木家の箱」を失い、想い出も友人との絆もすべて消えてなくなってしまうような大事件だったのだ。
変わらないものが好きだ。一生続くもの。消えないもの。
私は環境の変化が苦手だ。
いつでも今が最高に楽しいし、この時間がずっと続いてほしいと思っている。
しかし、なかなかそうはいかないのが現実だ。時間と共に環境は変わっていき、どんな楽しい時間にも終わりが来る。
愛情が深ければ深いほどその喪失感は大きい。楽しい時間を過ごせば過ごすほど、これがずっと続くわけではないというさみしさが同時に襲ってくる。
それはまともに考え出したら受け止められない現実だ。
だから私は、まともに考えるのをやめて生きている。
前だけを向いて、その瞬間に楽しいことだけを求めて、快楽に身を任せて刹那的に生きる。
それは極度のさみしがり屋の私が、変わっていく現実をなんとか受け止め共存していくための処世術なのだと思う。
だから私には箱が必要なのだ。
同じ時間を、同じ人たちを、ずっとそこに変わらずとどめておくのは難しいかもしれない。
だからせめて変わってしまう日々の中でいつでもそこにあり、中身は変わり続けるとしても、なんでも誰でも受け入れる鈴木家の箱を、私はずっと持っていたかったのだ。
あれから数年の時が過ぎ、今では家族はそれぞれ別の場所で暮らしいているが、笑い声のたえないそれぞれの鈴木家には、今も変わらずたくさんの人が集まっている。
近所の猫に餌をあげるのが日課になった母のもとには、餌場に猫を見に来る猫仲間が来るようになった。母が餌をあげられないときはローテーションでスケジュールを組んで餌をあげたりしている。
その仲間の絆の強さには驚きで、猫の具合が悪いときなどはその猫を家に連れてきて、ほぼ毎日のように皆で集まって看病をしていた。その様は、幼い子供を心配して集まる家族そのものだ。
父のれんが屋に来る仕事仲間は、よく来ていたおじさんたちに変わって20代の若者たちが集まるようになり、華やかだ。
父と若者たちの組み合わせは私からすると異様で、一度「パパみたいなおじさんとこんなに会っていて楽しいの?」と聞いたことがある。彼らは「鈴木さんとの時間はプライスレスです」と言って毎週のように父と銭湯に出かけるのだ。銭湯の中で父と話す会話ひとつひとつが彼らには宝物らしい。どうやら彼らにとっては父そのものがワクワクの箱なのだろう。