1.はじめに
思い出すことによって書かれる言葉には共時性がない。そこにあるべきは共時性を穿(うが)つ破壊力の方だ。まずは、共時性の裂け目から何か批評を書いてみようと思った。
筆者はいま思い出そうとしている。昨年ポレポレ東中野で、「梅雨の城定祭り2021」という、城定秀夫監督作品を特集した企画で偶然見たピンク映画のことを。映画を見る能力が極端に低い筆者が、確かあの頃が一番酒量の厳しい時分であって、気が付いたら巨大な裸体の前に座していた、そんな体たらくであったのだが――思い出そうとしている――生活から逃れるべくやみくもに掴んだ藁(わら)が、そのまま私自身の生活へと突き返すべくしなったあの手触りを、そのスクリーンに映っていた七海ななという女優の裸体のきめのことを。なぜそれが思い出されるのか、いかなる強度の経験だったのか。私の頭にその時に降ってきた想念について直接思い出すことができない。思い出せるのは、網膜に微かに残った、例えば婚約指輪の嵌められた彼女の美しい指が自身の恥部に滑り込んでいくことだったり、走る姿が妙に可愛かったり、そんなささやかなことばかり。
そして今一度、辿ろうとしている。そうこうするうちに筆者は柄にもなく動画配信サービスを利用することで、彼女の姿を探し出そうとしている。同時に、彼女の裸体に私が経験したもののことをも、この機会に振り返りつつある。
また、まだまだ感得する途中であるのも、自覚しつつあった。私が個人的に触れてきた「批評」――この大半は男性によって生み出されたもののようだ――彼らが我々にもたらした見識と、私自身の諸々の、おおよそこの社会に生きるなかで経験した事柄との、その結節点となりうるのは、得てして、名もない瞬間の、その度ごとのほんのささやかな現れに過ぎないのだと。
だから、今から始まるこの一連の、「彼女ら」に捧げるアンソロジーは、私の、個人的に好きな女たちに対する世迷い事に過ぎなくとも、それでも、いやそのために一層批評を呼び覚ますだろう。
七海ななについて知っているいくつかのこと (1)
人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する新連載。
第1回は西村が泥酔の中で邂逅した元セクシー女優、七海ななと「家」について。(3週連続公開)
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