愛のある批評

七海ななについて知っているいくつかのこと (2)

人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
七海ななによって共同体の崩壊が明るみに出る。処方箋はあるのか。

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3.自分自身を根拠付けることと「住居」
  3―1.ジュディス・バトラーの場合
《ケイコ先生の優雅な生活》と《ハケン家庭教師の事件手帖》は、自分の考えや行動を説明できない人々の物語である。共同体の秩序の崩壊は特権性の構造の破綻である。人々は愛を捧げるものではなく自分に属する特権性のことだと思っている。
 彼女が見えないのは、複数の要因による。彼女自身が言葉を持っていないこと、自分自身について言葉を発するとしても、人々の行動の起点としての自分のことしか語っていないこと、そして周りの人物もまた彼女について語ることはできない、など。彼女の周りの登場人物が彼女について語るなら、その人物が彼女にしたことを認める過程が必要である。そこにはさらに彼女について語る人物自身の、自分自身への説明が含まれることだろう。映画の中のそれぞれの共同体の崩壊は、人々の自分自身と他人とを語る言葉の無さが連鎖した結果としてある。
 さて、崩壊したままの共同体の内部では、人々はより良く生きていくことはできない。関係構築が必要であり、関係構築にあまり依らないかたちでの自分自身の根拠付けもまた必要である。先にみた二つのピンク映画が映し出す「悪しき生」の具体性においては、関係構築と根拠付けという二つの点がなし崩しになっている。人々は、彼女に関係を破壊されるままとなるか、彼女を追い出すか、いずれかを選択するしかない。そもそも、言葉があれば、責任の主体であれば、彼女を暴力を誘発する装置にしてしまうことはないのかもしれないのに。
 だが、関係構築に依らずに自分自身を根拠付けることには多数の困難が付きまとう。このことにジュディス・バトラーは『自分自身を説明すること』において一つずつ取り組んでいる。誰しも、抑圧と、例えば「普遍」「社会的規範」「権力」といったものと何のかかわりもないまま生きていくことはできないという問題設定の中で、バトラーは、主体形成の根本にかかわる、他者との相互の関係構築について考察する。
 例えば次のような意見が提出されている。

 私はあなたへの、、、、、、、呼びかけにおいてしか、、、、、、、、、存在しない、、、、、、とすれば、私そのものである「私」はこの「あなた」なしでは何者でもなく、他者への関係の外側では、自分自身への言及を始めることすらできないことになる。そして、この自己言及の能力は、他者への関係によって生まれるのである。私はぬかるみに足を取られ、委ねられており、「依存」という言葉さえここでその役目を果たすことができない。これが意味するのは、私は私の自己形成に先立ち、それを可能にするような仕方で形成される、ということだ。そして、この特殊な他動詞性について語ることは――不可能ではないにせよ――困難である。(ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳『自分自身を説明すること』月曜社、2008年、148―149頁。)

「自己言及の能力は、他者への関係によって生まれる」という出発点は、筆者には直観的になかなか厳しいものに感じられる。《可愛い悪魔》、《ケイコ先生の優雅な生活》そして《ハケン家庭教師の事件手帖》の三つの映画を見ての実感に基づいてもそうだが、日々の生活(SNS)に目を向けても、あまり変わらないだろう。
 特にマジョリティーとマイノリティーという見立てのなかでは、ここ10年で、「私」が他者(というより敵と言った方が適切かもしれない)に対し、自分がどういう人間かと説明したり、他者と共存する方向を模索したりすることは、もうほとんど不可能なことになったように思える。「私」が自分をどのように認識するか、どういった行動をするかが、社会、何かしらの権力、マジョリティーにより先んじて決定されてしまうのだと、警戒することは可能だ。しかし、そうやって「私」以外のものへの警戒という手順に偏って認識された「私」は、本当に「私」なのか。「私」の説明はそのとき、社会の構造に対する説明や、場合によっては人からのレッテル貼りに依存し過ぎてしまうことだろう。それはあまりに行き過ぎると、自分自身の行動や判断の正しさのために他者が必要だ、という倒錯を引き起こすことすらないだろうか。それにこの社会においては「私」が直接関与しない人間の方が実際には圧倒的に多いのであるが、そういう、マジョリティーとマイノリティーという見立てを適用する行為の外に存在する人間に対しどのように応答し、接していくのか。何も関係ない人々を、別の他者との闘争の磁場に、その度ごとに承諾を得るわけにはいかないだろうに、引き入れてよいのか。
 自分自身を語る言葉の無さは共同体の秩序の崩壊を招き、人々は一層生きづらくなっていく。ピンク映画ではない私たちの日常でも、事態はそれほど変わらないだろう。

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