愛のある批評

七海ななについて知っているいくつかのこと (3)

人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
七海ななによって明らかにされた共同体の崩壊。その再生の鍵も、また彼女が示していた。

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4.《人妻》と《舐める女》――「住居」は汚れとなり、汚され、「家族」は乗り越えられていく。
《人妻》と《舐める女》は、住居を中心に進展する物語だ。ここでの住居には、夫婦の私的空間であり、また家族像を夫婦に押し付けるという点では公的空間でもあるという二重の性格がある。住居で複数の人間関係が交錯していき、彼女はより良く生きるようになる。奇(く)しくもその住居は加害経験と主体形成の場である。しかしより良く生きるようになるといっても、それは道徳的に正しく生きるようになることでもなければ、《人妻》においては夫婦仲が改善されることとも違っている。
 この二つの映画は、《人妻》の方は特に必ずしもハッピーエンドとは言えないものだが、《可愛い悪魔》、《ケイコ先生の優雅な生活》、《ハケン家庭教師の事件手帖》に比べ見終わったあとに爽快感がある。共同体が破綻せず、個人がそのなかでその個人として生きていくようになるからだ。住居は、それまでの他人の生き方に沿って生きるよう要請するものである以上倫理的暴力の発生源となりうるが、彼女の演じる人物は、住居を自分自身への説明の始点として、「私」の側にぐっと引き寄せる。
《人妻》と《舐める女》において、七海は「家」の不可能性(家庭、家政)を生き、彼女の生活する「問題のある家屋」(不釣り合いな古民家や工場の廃墟)がまさに、彼女に生き生きとした生(性)をもたらしていく。ここでも、彼女が笑うとき、それは人々に幸福をもたらすというよりかは地獄の入り口を示しているのであり、平穏無事なものが揺り動かされていく。
《人妻》で彼女は、病気がちな人妻だった。工場地帯をのぞむ、古風な、夫と二人で暮らすには少し大きすぎる一軒家に彼女は住んでいる。夫はどこかで浮気をしているらしい。洗濯物を干していると、近所の男子高校生が挨拶してくれる。彼は彼女と楽しそうに過ごしている。地味なグレーの服を着ている彼女は、おもむろに出かける。遠くに銀色に鈍く光る工場地帯を右手に、土手沿いを歩いて、廃墟となった工場に向かう。そこにヤンキーのカップルがバイクでやってきて、大声を上げながらセックスする。二人は薬物を摂取している。そんな彼らを盗み見て、彼女は自慰行為にふける。だが少しでも興奮すると、喘息の発作が起きてしまう。
 そんなふうにして、彼女は常に共同体から疎外されている。古風な一軒家と廃墟となった工場とを往復することで、かろうじて自分自身を保っている。
 ある日、血のついた包丁を持った工員の男が一軒家のガラスを割って入ってくる。この男は、自分が勤める会社の社長を包丁で刺して、彼女の住む家に強盗しにきたのだ。包丁で脅されたり、通報しないか見張られたりする彼女。だがやがて、彼女はこの男を一軒家に匿(かくま)うようになる。男は彼女と夫との生活を、屋根裏部屋で見張る人間になる。最初こそ彼女を見張っていたが、次第に、衣食住を彼女に世話されることを通じて、彼女にとってかけがえのない存在となる。寝室の上の屋根裏から男が彼女を見ると、彼女が布団から、しっかり目を開いて男を見つめている。これに対して、彼女は夫と顔を合わせないのだ。夫が仕事へ向かうとき、見送る彼女は靴ベラを渡すが、夫は振り向かない。
 彼女は健康を取り戻しはじめる。彼女と男は、夜、夫が布団で寝ているときでさえ、性交に及ぶようになる。男はすでに、彼女に包丁をつきつけることなんてしなくなっている。彼女は男と本当に一緒に暮らそうと思い始め、「死んだって。あなたが刺した人」と噓をつく。男はいつまでこの奇妙な生活が続くのか、不安になり始める。彼女はますます健康になり、夫に反抗するようにもなる。いつもの見送りのとき、靴ベラで夫の頭部を殴る妄想シーンが挿入される。実際には靴ベラを固く握りしめたままだったのだが。
 男はある日職場に電話する。それで、社長が死んでいないことに気が付く。自首することを、彼女から逃げ出すことを決意する。彼女は自首を止めようとする。男は逃げる。川べりの雑草が生い茂るところ、男に缶飲料を投げる。男は気を失う。近くにたまたま置いてあったリアカーにブルーシートを被せて男を乗せる。
 男が気づいたとき、そこは例の廃墟となった工場である。彼女は薬物を摂取した状態だ。彼らは、例のカップルと同じように、大声を上げてセックスする。やがて男は逃げる。工場を前にして、石を投げる男。警察官が通る。男は自首する。
 他方、工場で眠る彼女。目をカッと見開く。
 最後はまたいつも通りの朝のシーン。洗濯物を干す。そこにいつもの男子高校生が通りかかる。「あの、今日も帰りに寄っていいですか」「裏口から来てね」と会話を交わし、彼女が煙草を吸っているシーンで終わる。
「ケイコ先生」と「ハケン家庭教師」と同様、彼女は複数人と関係するのであるが、《人妻》において共同体の秩序の崩壊は描かれない。それは、彼女自身が、自分自身の根拠付けを達成したからである。
 ここで重要なのは、確かに共同体は崩壊しなかったが、彼女が夫と和解したとも言い難い点だ。むしろ彼女が和解するのは、彼女自身の人生とである。彼女は、工場からやってきた男との経験を経て、廃墟となった工場ではなく、古い一軒家の方でそれでも生きていくことを受け入れるのである。この和解という契機は「ケイコ先生」と「ハケン家庭教師」にはなかったものだ。しかも、和解することは、平穏無事に何事も起こらなくなることではなく、「良き生」からも遠い。目をカッと見開いたのちの彼女は、近所の男子高校生と関係を続けていることだろう。それは「こうでしかありえない生」である。彼女は他人の生に回収されない生を生きていく。