5.おわりに
《人妻》と《舐める女》には共同体を崩壊させない方法が示されている。家の中で、自己変容により自分と和解することは、「これでしかありえない生」を生きることであり、それはつまるところ、「関係構築に依らない自分自身の根拠付け」なのである。そして、ここから他者との関係構築を、彼女らは始めている。
住居のなかで孤独に生きることとは、共同体という単位ではなく、夫婦であれば一人と一人とで生きることである。《舐める女》で夫婦という共同体が再生するのは、結果であって目的ではなかった。彼らはそれぞれに何があったか知らないままに、自分たちなりの家族となった。住居のなかで孤独に生きること、それは、共同体の内部で合目的性から解き放たれ、ままならない自分自身が生きることである。
筆者は少しでも「見ること」ができるようになっただろうか。批評は、対象への理解を自己理解の進展と分けることなく進めざるを得ない。
彼女をうまく見ることができないのは、彼女を含めた対象の、考えや行動の不確かさ、そして筆者自身も無関係ではいられない、言葉の無さのせいだった。自分自身を根拠付けることは、相手の要求にこたえることではない。自分の人生と和解することである。
彼女から一旦目を離して、今現在の現実に目を向けると、自分自身を語る言葉の無さによる共同体の秩序の崩壊の様子を、ただ黙ってみているしかない状況である。彼女と、彼女を取り巻く人物たちは結局言葉によって自分自身の根拠付けを達成したわけではなかったのだが、私たちはそういうわけにはいかないだろう。基本的に「こうでしかありえない生」は規範性が欠けている。もちろん映画はフィクションだが、それを差し引いても彼女の生は模倣できるものではない。「悪しき生」において規範性のある生き方はどれほど可能か、という問いは、まだまだ先まで残り続けることだろう。
個人がより良く生きるのは共同体のためではないが、共同体を破壊するためでもない。近所の男子高校生をたぶらかすほどに性的に奔放になることが、あるいは、「嗅ぐ女」から「舐める女」へと変容することが、彼女にとっての「自由」だった。だがそれは自己変容以上のものではない。住居も家族も破壊されないのであるし、彼女らの自己変容を共同体内部にいるもう一人の人間である夫は知らない。住居には、強盗の寝床とされたり体液で汚されたりした記憶が密かに刻まれている。「家族(夫婦)」の再生と維持が何によって果たされたか、彼らは互いに、ひょっとすれば彼ら自身にもわからないのかもしれない。
何も変わらなかったと、バックラッシュだと映画のことを非難することはそれこそ根拠が不確かだ。人々は、それでもなお共同体の内部で生きていかねばならないことには変わりない。共同体が毀損されると、それこそ誰かが暴力を被ることになり、その暴力は人間が見えないその程度に応じて、見えないものとなるだろう。その惨状は《ケイコ先生の優雅な生活》で確認した通りだ。
だが、自己変容により「こうでしかありえない生」を生きることにより、「悪しき生」に亀裂を入れることくらいは可能だ。自分の生から他人の生の規範を取り出すことをできなくさせることで、倫理的暴力の構造を少しだけでも食い止めるのは可能だ。新たな関係を構築することで、社会の抑圧を一旦過去のものにすることは可能だ。それがどれほどささやかなことでも、シニシズムに陥る前にできることはあるだろう。
現状維持と現状追認とは違う。自己変容の可能性はまだまだたくさん残されていると思う。それは、必ずしも社会変革の夢を見ることとは同じではないのだとも思う。我々が壊れている。そして我々は愛することをまだ始めていない。
そんなことが、筆者が七海ななについて、知っていることである。
七海ななについて知っているいくつかのこと (3)
人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
七海ななによって明らかにされた共同体の崩壊。その再生の鍵も、また彼女が示していた。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
七海ななによって明らかにされた共同体の崩壊。その再生の鍵も、また彼女が示していた。