恵比寿横丁という飲み屋街ができたのは、何年前のことだろう。私にはつい最近に思えるのだが、もう15年近く前の2008年のことだ。
恵比寿横丁ができたときはすごくおしゃれなものができたと思ったものだ。今では繁華街のようになり、酔っ払いがそこらじゅうでたむろしている恵比寿も、少し前までは人も少なくどちらかというとさびれた街という印象だった。
恵比寿横丁ができる前、あの場所は「山下ショッピングセンター」という、ショッピングセンターとは名ばかりの、閉店したお店が立ち並ぶうす暗いトンネルのような空間だった。
2店舗くらいは営業を続けていたが、入り口を見るかぎりそこでお店がやっているなんて想像もつかないような雰囲気だった。きっと知る人ぞ知る、地元の昔からの住人の憩いの場だったのだろうと思う。
うす暗いトンネルになる前、山下ショッピングセンターは活気のあるショッピングセンターだった。小学生の私が子どもながらに足繁く通ったのは、同級生のお母さんがやっていた駄菓子屋「フレンド」とサンリオショップの「ナウ」だ。
山下ショッピングセンターはフレンドを中心に三つに分かれた通りがあり、それぞれの通りの先に出口があった。ナウはそのひとつの出口付近にある小さな店だった。
畳一畳くらいしかない「フレンド」には、いつも同じ小学校の子どもたちがひしめき合っていた。お店の前に置いてあるゲーム台で遊んだり、細長い店内の両側にびっしり置かれた駄菓子を買ったり。10円のくじを引いて一喜一憂して、毎日が縁日のようなお店だった。
100円あれば何時間も遊べるフレンドは、小さな私たちにとってパラダイスだった。かぎっ子だった私は、母がたまに置いて行ってくれる100円を持って友達と一緒にフレンドで楽しい時間を過ごしていた。
フレンドのおばさんは同級生のお母さんであったにもかかわらず、いつも子どもたちに不愛想だった。ふくよかな体型に白髪交じりのひっつめの髪、いつも遠くを見ているような光のない目。何度もくじをやりたがる私たちを面倒くさそうににらむような素振りをしたとき、震え上がるような気持ちになり、何も悪いことをしていないのに怯えていたのを覚えている。
今考えるとおばさんはそんなに不愛想なわけでもなく、たまに声をかけてくれて雑談をするような場面もあったのだが、小さな私たちは恐い体験ばかりをクローズアップしていつもヒヤヒヤしていた。ヒヤヒヤしながらも毎日フレンドに通うのがまた子どもらしいのだが。
影でこっそり「恐怖の鬼ばばあ」なんてあだ名をつけていた。
私が人生で忘れられない恐怖体験をしたのもこの山下ショッピングセンターだった。私たちのもう一つの憩いの場、サンリオショップの「ナウ」での出来事だった。
小学校5年生の夏、私は幼馴染のワカナと渋谷にあった日能研の夏期講習に通っていた。
その日はワカナと二人で日能研に行った帰りに、渋谷駅の構内にあったサンリオショップに寄った。
そこで私たちは世にも恐ろしい体験をしたのだ。
今でも忘れない「緑ばばあ」との遭遇だ。
そのご婦人は、歳の頃は40台半ばくらいだろうか。全身緑のワンピースを着て、髪は長いぐりんぐりんのソバージュ、近くに寄ると化粧の匂いがプンプンするような厚化粧で、真っピンクの口紅をしていた。しかもその口紅は片側が大いにはみ出し、見た瞬間に「口裂け女だ」と思ったのは言うまでもない。
私とワカナはその女性を凝視したまましばらく目が離せず、その後顔を見合わせ「口裂け女だよね」という無言の確認をしあった。
なんとなく恐い雰囲気を醸し出す口裂け女と目が合うのを避けるように、私たちは彼女から死角になる場所に移動しながらサンリオグッズを見ていた。
恐いもの見たさからたまにチラッと口裂け女のほうを見ると、眉間に皺を寄せて何やら真剣にグッズを見ている。
「娘さんへのプレゼントを選んでいるのかな」と今なら思うかもしれない。でもその頃の私たちにそんなことを考える余裕はなく、恐い顔をしてグッズに見入っているその姿は、口裂け女が獲物を選別しているかのように見えていた。
私たちはなるべく目立たないようにひっそりと気配を消していた……つもりだったのだが……
「あんたたち何見てるのよ‼ 邪魔なのよ!」
口裂け女の口がクァッと大きく開いたのを見たのと同時に、その叫び声は店内中に響き渡った。
私たちはあまりの驚きにビクっと身体が震え上がり、そのまま硬直して動けなくなった。
私たちの目線の先では、口裂け女がこちらをにらんでいる。まるで私たちの空間だけスポットライトが当たっているような緊張感が私たちを包み、私たちはその口裂け女を見つめたまま目を離すこともできなかった。
「どきなさいよ‼ 邪魔だって言ってるでしょ!」
般若のような顔で近づいてきた口裂け女は、私たち二人の間を割って入るように体当たりをしてきた。一瞬何が起きたか分からなかった。知らないおばさんが敵意むき出しでぶつかってくるなんて、今までの人生で経験したこともなければ想像したことすらなかった。
体勢を崩した私たちはそれでもその場から動くことができず、「すいません……」と出ない声を絞って口をパクパクさせるのがやっとだった。
口裂け女はなお罵倒をやめず、キンキン声で「なんなのよあなたたち!」などど叫びながら鬼の形相で私たちを睨んでいた。
そのうち騒ぎを聞きつけた店員さんがこちらに向かってきた。口裂け女ははっと我に返るかと思いきやそんなことはなく、それでも私たちに罵声を浴びせて睨みながら、しかし店員さんが到着する寸前に「本当邪魔くさい!」と捨て台詞を言いながら店内を去っていった。
私たちは恐怖で身体がすくみ、「大丈夫だった?」と声をかけてくれた店員さんにまともに答えることもできず、ただひたすら何度もうなづいていた。
おしっこちびりそう、とはこのことだ。
見た目だけでも恐怖だった口裂け女に、わけも分からず怒鳴られて体当たりされた。ひっぱたかれるんじゃないかと思った。店員さんが来なかったらそうなっていたかもしれない。そのぐらいの勢いだった。
何かした覚えはない。ただたまにチラチラと見ていただけなのに、それが気に触ったのだろうか。