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3.前田敦子―秋元康を真に批判するには……
前田敦子の見えなさ、語りえなさは、批判の完結されなさゆえであり、それは秋元康への批判不可能性を動力にしていたのかもしれないと思う。これはまた、前田を推さない人間は前田についてそもそも語りもしないので、表面化しづらいポイントだ。
先の回で「前田敦子は「システム」であり「実存」だった」ということを筆者は論じたが、実は、AKB48にとって「システム」と「実存」どちらが大切か、という論点は、いわゆる「AKB論壇」が提出したものだ。この論点は、小林、中森、宇野、濱野による座談会を収録した『AKB48白熱論争』の188~194頁で提示され、小林よしのりは『ゴーマニズム宣言SPECIAL AKB48論』の特に第9章「アイドルの丸刈りがそんなに悪いか?」でこの論点を引き継いだ。ここで「実存」は、「主体性」と言い換えられ、峯岸みなみ坊主事件を非難する大衆への批判の根拠として機能した。曰く、「世間は誰も峯岸みなみ本人の主体性を認めないのだ!」(小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL AKB48論』幻冬舎、2013年、107頁)。
微妙に整理しがたいところもあるが、『AKB48白熱論争』では、「システム」側には宇野と濱野が、「実存」側には中森と小林が分かれていた。
中森は、濱野の書いた「ウォーホルも予言した「AKB現象」徹底解読」という記事に対し、そしてこれを濱野がアンディ・ウォーホルとイーディ・セジウィックの間に何があったか知らずに書いたと知り、忠告するように批判する。
濱野智史という若き論客が「AKBはウォーホルのファクトリーだ」と語れば、ロジックとしてシャープな感じだし、カッコイイんですよ。だけど、そうやって論理で切った手形のツケを、いつか実存で払わなきゃいけないときが来るように思う。ウォーホルは、ファクトリーで人間をアートのようにスーパースターに仕立て上げた結果、イーディという悲劇の女性を生み出した。さらにはヴァレリー・ソラナスに自分自身が撃たれるという痛みも味わった。そうやって、ポップの裏側にある実存の問題に復讐されるわけ。単純に言うと、女の子たちが可哀想だと思わないの? ということだけど。(小林よしのり・中森明夫・宇野常寛・濱野智史『AKB48白熱論争』幻冬舎、2012年、189頁)
小林もまた宇野に対し、「システムを作らないと実存というのはできないわけ?」(193頁)とぶつけるが、「AKBは、実存を輝かせるためのシステムを作ったところがいいと思うんです」(同頁)と返されてしまう。
『AKB48白熱論争』からは、単なる世代間闘争のようなところがあるにせよ、「システム」側と「実存」側の対立が汲み取れる。だが、そうした四人をもってしても、秋元康を高く評価するという方向性では軌を一にしている。小林はここでも少し他の人とモードが違っており、『ゴーマニズム宣言SPECIAL AKB48論』とあわせて読むと、秋元については、飽くまで大衆に迎え入れられる女の子を見出すプロデューサーとしての審美眼への憧れを表明するに留まっているようだが、宇野はこの国の社会について常に視野に入れるなかで、秋元への高い評価を導き出している。
秋元さんは、社会のシステムを批判するわけではないけど、いろいろと面白い仕掛けを作っていくことで、結果的に「こんな仕組みがあり得たのか」というショックを与えているんですよね。個人のライフスタイルではなくて、人やお金の集め方、動員のシステムについて新しいモデルを提示している。しかも、あくまで商売として。(『AKB48白熱論争』203頁)
「システム」側のパトスは、社会や政治への、言わば外部接続可能性といったものへの夢想に支えられていたように見える。だがそれは、秋元康(父)への単なる憧れの域を超え出るものだったのかと言うと、どうも疑わしい。
それでは「実存」派の二人は何を夢想したか。筆者には、「実存」派もまた秋元への単なる憧れからそこまで自由でなかったように見える。
このことを考えるためのヒントとして、ここでもう一人どうしても重要な人物を提示せねばならない。指原莉乃である。中森と小林の共通点は、指原莉乃の台頭によって、AKB48への夢想を一旦やめることができた、ということにあるのではないかと筆者は思う。
それは中森から指原への手紙という体裁で書かれた文章にある「AKB48を終わらせたのは、指原さん、あなたなのではないか?」(中森明夫「指原莉乃への手紙」『サンデー毎日』2021年1月31日号、毎日新聞出版、96頁)という文言と、小林の『AKB48論』が指原が第5回選抜総選挙で1位を獲得した場面で一旦区切りがついているというところから考えついたことであるが、果たして、どのようにして指原はAKB48を終わらせたと言えるのだろうか。