指原莉乃は「 」の外側からやってきて、「 」を外した人間である。それは彼女が派手なスキャンダルをやらかしたこととはあまり関係ない。AKB48にとってスキャンダルは「フィクション」に回収される「ガチ」でしかないからだ。
指原が「 」の外側からやってきて、「 」を外したとは、つまり、彼女自身がアイドルファンだったのであり、ファンであった来歴をファンに消費させつつ、そのままプロデューサーへと変貌した、ということだ。指原は今や「=LOVE」「≠ME」「≒JOY」といったアイドルのプロデューサーを務めるまでになった。彼女はAKB48にとって、「娘」であり、やがて「父」になった。
小林の『AKB48論』において興味深い点はいくつかある。前田敦子と秋元康に特に積極的にイメージが与えられていないこと、「実存」や「主体性」という言葉で指原莉乃のことを語らず、彼女には「娼婦を管理する「遣り手ババア」」のイメージが付与されていること(153頁)、そして小林自身の、秋元康のようになれなかった経験について紙幅が割かれていることだ(第8章)。
これらは微妙につながっているように思う。どうして、指原莉乃というアイドルが、あれほどセルフプロデュースに長けた人間はそうそういないというのに、「実存」や「主体性」という言葉で語られないのだろうか。『AKB48論』が指原の台頭で締めくくられるのは、小林が、自分はなれなかった秋元康に、指原莉乃が成っていったのを直観したからではないか。そして、その「父」の姿が、自分が指原に与えたはずの禍々しい「娼婦を管理する「遣り手ババア」」と遠くないのを、いや、まさに指原がそのイメージを秋元の側へ投げ返したのを、どこかで感じてしまったからではないか。
指原莉乃とは、「実存」と「システム」の結託の中からはあらわれるはずのなかった、本当に主体的なアイドルだった。その主体性とは、「父」を批判することでも、打ち倒すことでもなく、「父」を反復することだった。それも、どこか醜い反復である。指原を見て、この社会が真に望む主体的な女性のイメージを彼女から得る人は少ないのではないか。だがそれが、唯一可能な、「父」への批判なのではないか。
指原は、特に山口真帆襲撃事件の一連の騒動のなかでの彼女の対応からして、ほとんど政治家のようだった。濱野にとっては特にそうだったようだが、AKB48とは、ある面では政治への夢想だった。それは、まさにこのAKB48という場が本当の政治の場になることはない、という強い前提のもとでしか成立しないものだったのではないか。つまり、彼女たちひとり一人が政治的主体となるはずはない、という暗黙裡の了解があったのではないか。
であるからこそ、指原の存在は衝撃的であり、指原の総選挙第1位が何やら象徴的な意味を帯びたのは、彼女が「神7」の体制を打ち崩したことそれ自体にあるのではない。あれは、指原という政治家の誕生の瞬間だったのではないか。
彼女が彼女の同胞を打倒したのでもなければ、もちろん前田を倒したのではない。指原が終わらせたのは、AKB論壇の論調にあらわれていたところの、「父」への欲求に他ならない。総選挙などといって結局政治への夢想を楽しむだけのファンが政治的に成熟することを待たずして、実に政治的な感覚を携え、つまりは利害関係の調整能力を職能とし、しかもその職能の発揮のきっかけを与えたのはファンからの集票であったというふうにして、彼女は台頭していったのである。
あのとき前田は終わった。いや、前田敦子という固有名詞が、あの瞬間に、「 」の外された実存へと返ったかもしれない。彼女の役割は政治への夢想の前提をなすことでもあった。卒業してもしばらくは、彼女は彼女自身がシステムであるといっても過言ではないほどに、捨象されきっていた。彼女のすべてがAKB48の出来事として象徴化された。前田が倒れたのは、彼女の容姿の変化や老化などの彼女自身の身体に由来するところは少ない。指原がファンを倒し、それによって倒れたのである。そしてこのことでもって、AKB48は一度あの時終わった。
あの頃の前田敦子 (3)
人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
ここで指原莉乃という人物が登場せざるを得ない、その理由を見届けてください。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
ここで指原莉乃という人物が登場せざるを得ない、その理由を見届けてください。