4.おわりに
思えば、前田敦子があの時実存に返ったとて、他にもたくさん乗り越えられていないものがファンの側に残された。ひとつは、アイドル産業において愛とは消費だ、ということ。大島優子が第3回AKB48選抜総選挙の開票イベントで、「AKB商法」の批判を念頭に置きつつ言い放ったであろう「票数は皆さんの愛です」という発言は、今なお乗り越えられてはいない。愛が消費と常に癒着する。所詮は消費者である、と自認しさえすればアイドルに対し倫理的になることも可能とはなるだろう。だが、単なる愛も、単なる消費も、いずれも不可能である。
愛と消費の癒着は乗り越えられない。「システム」にハマった人々はその現実に直面していたのではないか。今となっては、あの奇妙な熱狂についてそんなことを思う。そして内心あの頃のアイドル論を毛嫌いしているであろう後続の人々もまた、愛も消費も、いずれも何も乗り越えられていないのであれば、あの頃を批判するのは能わないはずなのだが。
そして、ファン全体の公共性の問題も残されてしまった。確かに、アイドルに関する言説の論調は、あの頃とはだいぶ変わったように思える。自らの加害性や有害性などというのを直視せよ、とはよく言われるようになった。だが、問題となるのは、他人の加害性の方だろう。たった一人自分だけが自分の「推し」にだけ加害性を発揮しなければよい、と思っているのであれば、ファン同士で公共圏をつくりあげることは遠のくばかりだ。濱野が経験したところのAKB48の宗教性とは、AKB48を介しての公共圏の復権のことでもあっただろう。ただそれは、前田敦子という殉教者を前提にするものだった。だからそれは「アンチ」の存在を放置する方便に悪用されうる言説だったように見える。本当にAKB48に公共性があったというならば、同じ公共圏に属する他者の有害性に対し対処できていなければならなかったのではないか。
この原稿を書いていて、やはり、「システム」の内部で、誰しもが主体性を獲得するのは無理があるだろう、と思うようになった。指原のケースはかろうじての主体性だ。「父」を醜く反復したという事実でもって、「父」に対する批判となせ、などと人に進言することはできない。「システム」の外部からアイドルを見やるファンにしても、同じことだ。ファンの主体性はアイドルへの他律性に回収され、やがて金銭自体が問題になるのは避けられないように思う。そもそも、そこにいる「父」はファンからしたら実際には抗うことも従うこともやりようがない存在である。批判しても結局は「システム」の動力として回収されてしまう。
アイドル産業において生きる人間が直面するアポリアとは、その産業のもとで責任ある主体として生きることは本当に可能か、と言い換えることができる。ファンの享楽と責任は両立できるか。このアポリアに対し一定の態度を示せたファンのみが、産業界の要請に従って生きる別の公共圏の人間に対し、つまりはアイドルに何の興味ももたない人間に対しなにか規範的なことを言うことができるだろう。政治だの経済だのと、自身の専門分野の語りにそのまま接続させることは、公共性から最も遠い。
ところで、結局筆者も、前田敦子についてのみ語ることができなかった。
いろいろMVやドキュメンタリー映画などを見返したのではある。だが、どうしてか、どれを見ても、うっ、と胸につっかえるような感じがした。当時は感じなかった。アイドルを見ていてこんなことははじめてだ。前田敦子とは、こんなに存在感の強い人間だったのかと思う。見えなさとは関係への消尽という以外に、直視できない心持ちのことでもあったのか。宇野や濱野が、彼女を直視できないから「システム」へと目を向けたのか、「システム」への関心ゆえに彼女を直視することもなかったのか、もはやあの頃の感受性のことはわからない。
「Selfish」(2016年)のMV、前田はあれほど大人っぽいのに、どこか少女の頃の表現様式が残っているような気がする。なぜだろう。オーディション当時の映像も見返した。ちょっぴり、『チェンソーマン』第1部の最後に登場する、ナユタに似ていると思った。
若々しさや子供っぽさとはそもそも位相が違うところにある、成熟の不可能性を前田敦子は宿していた。それは、何度でも「母」であること、つまりは、支配とその反復の起源であり続けること。「……歳の前田敦子です」。やはり、どうしたって、この人がいなければすべてはじまらなかったのだろう。