世界マヌケ反乱の手引書刊行記念

マヌケ反乱も音楽も国境を越える【前編】
『世界マヌケ反乱の手引書――ふざけた場所の作り方』刊行記念

●北朝鮮での「インターナショナル」

中川 1990年代から2000年代前半にかけて、けっこうな数、海外でライヴをやってて、まさに、人間、どこにいても一緒やなと思った。

松本 やってることはだいたい一緒ですもんね。同じように悪い奴もいるけど、その一方で面白い奴もいっぱいいるし。

中川 1996年にピースボートのゲスト(水先案内人)で北朝鮮に行ったんやけど、まだ日本人拉致のこととかまったく知らなかった頃でね。当時北朝鮮にひどい水害があって、食糧不足に陥って。で、農協とピースボートが組んで、コメを持っていくことになった。コメを庶民に手渡すところまでちゃんとやろう。そういうコンセプトで船を出して。その時「ゲストで乗りませんか?」という誘いがあって。行くに決まってるよね。「行く行く! 行ってみたい!」(笑)。

 これは後でピースボートの人に聞いた話なんやけど、北朝鮮側に「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」と言ったら、「ソウル? 南とどういう関係があるんだ?」という話から始まったらしくて(笑)。ピースボート側が「いや、ソウルというのはアメリカのスラングで……」って説明したらしいんやけど(笑)。行ったら交流会みたいなのがあって、有名な普天堡(ポチョンボ)電子楽団と対バン(笑)。その時の対応がちょっとひどくてね。彼らは「普天堡電子楽団が決めたモニタースピーカーの位置を動かすな」って言うんやけど、当然それやと演奏できない。それぞれのモニターの位置、マイクの位置を動かさないと演奏なんかできないでしょ? でもその時の受け入れ先だった金日成社会主義青年同盟の連中は「動かしてはいけないです」の一点張りやったから、そこでちょっとした一悶着になって。「ええ加減にせえよ。お前ら、ウェルカムせえへんのか」という話になって。彼らは日本語を喋れるエリートで、日本語でずっとやり取りしてたんやけど、色んな事情を鑑みても、これはポーズでも怒り続けようと思って。モニターは何とか動かせたんやけど、結局2曲しか演奏させてくれない。滞在期間は10日弱ぐらいやったけど、俺は毎日「もう1回演奏させろ」と言い続けた。「あの音響状況で2曲しか演奏できないなんて、それはないやろう。お前ら、ええ国なんやろ? ちゃんとウェルカムしろ」と(笑)。でも毎日ホテルのロビーで青年同盟の連中と一緒に飲んでるうちに、彼らの何人かと仲良くなって。それで5日ぐらい経った時、彼らが「確かに私たちが間違ってました。もう1回やりましょう」と言ってきて。ホテルのレストランで、社会主義青年同盟の連中とホテルの従業員を全員集めて演奏することになった。もう1回演奏できることになったから「やった!」と思って。その時、チンドン・アレンジの「インターナショナル」をやったら、彼らに「気をつけ」されてしまったよ(笑)。

松本 その姿勢で聴いていたと(笑)。

中川 「まじかよ」(笑)。

松本 全然踊らない感じですか?

中川 その姿勢で体を揺らしてた(笑)。松本くん、モノノケ・サミットのライヴを見たことがあると思うけど、俺ら、演奏中に飛んだり跳ねたりしないでしょ? でもその時ばっかりは、各曲のエンディングでずっと飛ぶようにした(笑)。とにかく、普段の感じをよりロック的にデフォルメしたりして(笑)。

 あの国の音楽状況もかなり特殊で、俺が社会主義青年同盟の連中に「かっこいい民謡のCDないの?」って聞くと、「ありますよ。一緒に見に行きましょう」って言うから一緒に何軒か店に行ったら、デパートでかかるようなイージーリスニング的な民謡しかない。それでもその中から選んで10枚ぐらいCD買ったけどね。

松本 朝鮮文化だったら絶対に民謡ってあるはずですけど、北朝鮮では出回ってないんですかね。

中川 少なくとも96年当時はそうやったね。今は知らないけど。とにかく、その10日間にはいろんなエピソードがあって。

松本 僕は法政時代、「鍋闘争」とか変な活動ばっかりやってたから目立ってたらしくて。それである時、塩見孝也さんから連絡が来て「北朝鮮に留学しないか? 君の考え方は主体(チュチェ)思想だ」と言われて。「いや、全然違うと思います」と言ったら「君は民族主義だ」と言われて、断るのが大変でしたよ。

中川 それは困るな(笑)。

 

●北から見た板門店、南から見た板門店

松本 中川さんは一時期、パレスチナとかに行ってたじゃないですか。向こうに行って、だいぶ印象が変わったんじゃないですか?

中川 やっぱり行っちゃうと、印象は変わるよね。おっさんは姉ちゃんが好きやし、おばちゃんは若い兄ちゃんが好きやし(笑)、みんな音楽と猥談が大好き。どこに行っても一緒やなと思うね。ホモ・サピエンスって本当にマヌケやなと(笑)。

松本 もっともらしいことを言ってても、実は大バカだったりしますもんね。

中川 みんな大バカ者。酒が入ったら一緒やね(笑)。

松本 北朝鮮の見えないところにも、超面白い奴がいっぱいいるはずですよね。それを超見たいし、会いたいですね。居酒屋とか行ったら、絶対に面白いだろうなと。

中川 北朝鮮に行ったとき、ピースボートがうまく彼らと付き合って、最後の2日間、自由行動させてもらって、そのへんのデパートを歩いたりして。当時、伊丹英子の髪の毛は赤で、俺は紫やったから、子どもたちが笑いながら恐る恐る付いてくる。子どもたちは可愛くて、「戦前の日本とか、こういう感じだったんじゃないかな」という空気感もあったり。歌を歌いながら、子どもが手をつないで歩いてたり。なんか、素朴なアジアの原風景みたいに見える部分もあったりして。とはいえ、俺らは平壌、開城、板門店しか見れなかったけどね。

松本 たぶんそれは、相当いい階層の子どもでしょうね。

中川 板門店には「軍事停戦委員会」という青い建物があって、真ん中に国境線が引いてある。俺らが北朝鮮側からあの建物に入っていくと、向こう側から韓国兵と米兵が「なんだあれは!」っていう顔で見てるわけよ。髪の毛が赤い奴や紫の奴が北側から階段を下りてきて、中で朝鮮戦争の説明を聞く。あの建物の中だけは、どちらの国でもない。そこから韓国兵と米兵がバーッと窓のところに来て、伊丹のほうに手を振るわけ。俺らもそこで「イェーイ」とかやってて(笑)。もちろん北朝鮮の兵士は、何ら表情を変えない。建物を出たところに国境線が引かれてるんやけど、伊丹がそこに近づいていって、冗談半分で線を越えるふりをしたんです。そしたら、社会主義青年同盟の若者が血相を変えて「伊丹さん、それ以上行ったら撃たれます! 1カ月前も1人死にました!」とか言ってて、「ゲー!!」(笑)。それはまさに、国境というもののバカらしさを実感した瞬間やったね。韓国兵と米兵に手を振り、冗談半分で線を越えたら「それ以上行ったら撃たれます!」と。それは本当に短い、5分ぐらいの間の出来事で。その時つくづく、国境ってくだらないなと。人間の法則の真逆にある。

松本 僕は韓国側から板門店に行きましたけど、その時は逆に北朝鮮兵が雑談しながら歩いてて。向こうの人たちはすごく自由なんだけど、韓国兵は微動だにしない。北朝鮮兵は、窓の外からすごく見たりしていて。だから、中川さんが行った時とは逆ですね。その時は中国経由で韓国に行ったので、共産圏の時計とか訳のわからないお土産を持ってた。「これ、見せたら面白いだろうな」と思って。「北朝鮮兵には目も合わさないでください」って言われてたんだけど、こっそり「これ、これ」って言って見せたら北朝鮮兵が「すごいすごい! 仲間だ仲間だ!」って言って喜んで(笑)。そうしたら韓国側の係の人が飛んできて「絶対に会話しないで!」って注意されましたけど。それからは、こっそりばれないように見せたりして。

中川 ああいう極端な場所は、人間の本性をあらわにするよね。

 

●ベルリンの壁の向こうのパンクロック

松本 本当にそうですよね。僕もあそこに行って、国境なんてばかばかしいなと思いました。

昔、ベルリンは東と西に分かれてたじゃないですか。僕はベルリンに行った時、西ベルリンで生まれ育った人と友達になって。彼は僕よりもちょっと年上だったんですけど。ベルリンの壁が崩壊した時、彼は18ぐらいだった。壊れるかどうかぎりぎりの時には国境沿いに東ドイツ・西ドイツの軍隊がいて、常に銃を持っていた。その時は命令が来たら、民衆を撃つという状態だったらしくて。国境に行けるようになった瞬間に、西ベルリンの人たちは東ベルリンのほうに抜けていって、そのへんの知らないバーに行って飲んだりした。そこで東ベルリンの人たちから文化・音楽のことを聞いて、すごく仲良くなったそうです。それは超楽しそうだなと思って。

 彼らは、お互いのことを全然知らなかったんですよ。東ベルリンはあんなにすぐ目の前にあるのに、まったく知らない文化がいっぱいあった。彼はそのことにすごく驚いたそうで。東ドイツは共産圏で、西側の文化はダメということになっていた。だからロックとかも禁止されてたそうで。その友達はパンクバンドをやってて、東ドイツにはそういう音楽はまったくないと思ってた。でも実際には、東ドイツでもビルの地下とかでずっとパンクをやってた奴らがいたらしくて。彼らはばれないようにレコーディングしたり、ライヴをやったりしていた。ベルリンの壁が崩壊してから、そういうことが全部明らかになったそうです。演奏の質も機材もすごく悪いんだけど、みんなそういう音楽をやってた。それを知った時、超びっくりしたと。だから北朝鮮にも、もしかしたらそういう音楽・文化があるんじゃないかなと思います。まあ、北はちょっと厳しいかな。

中川 あの政治体制は究極やからね。細々とでもカウンター・カルチャーがあってほしいけど。

松本 あるいはロックとかじゃなくて、独自の謎の文化があるとか(笑)。北朝鮮はわからないですけど、どこでも同じようなことをやってる人たちが絶対にいるんじゃないかと。そこがすごく面白いですね。

中川 せめて、民主化チェコの初代大統領ハヴェルたちが、プラハの春の頃、こっそりと輸入盤のフランク・ザッパ&マザーズやヴェルヴェット・アンダーグラウンドを聴いてたというような話はあってほしい。ほんと、なんとか血をみないかたちで、民主化されてほしいと思うんやけどね。

松本 かといって、韓国が正しかったということになるのも変じゃないですか。どちらが正しいというよりも、ちゃんと自然なかたちでやってくれればいいんだけど。

インディーズの文化・場所とかをつくってる中国の人たちと話している時、たまにポツッと「でも日本人って、みんな中国人のこと嫌いなんだよね」って言われるのがすごく悲しいというか、淋しいというか。やっぱり、彼らにそういうふうに思わせてるんだなと。メディアでは、そういう取り上げ方をしてますから。これから、彼らにそう思わせないような世の中にしたいなと思うんですけど。

中川 2005年、韓国の弘大(ホンデ)地区のライヴハウス2カ所でライヴをやったことがあって。打ち上げで韓国の若い子らと飲んだ時、歴史の話になって。話の文脈は忘れたけど、俺が「日本に関しては、終戦後、市民が自ら政体を選択せずに、戦争責任免除と引き換えに日本国の米軍基地化と天皇制を存続させたのが尾を引いてるんじゃない?」というようなことを言ったら、その中にいた女の子が涙ぐみながら「日本人でそんなことを言う人がいるんですか? そんなことを言って大丈夫なんですか?」と(笑)。それを聞いて、韓国人と日本人にはそれぐらい距離があるんやなと思って。もちろん韓国もこの10年ほどでどんどん変わってきてると思うけど、とにかくその時はびっくりして。「日本人で、中川さんみたいなことを言う人は他にもいるんですか?」って聞くから「いくらでもいるで。しかも俺、別に極左でも何でもないし(笑)。そんなこと、庶民は普通に言うよ」って。そうしたら「ああ、そうなんですか」って驚いてて。いやぁ、距離あるなぁ、って。

松本 僕も日本政府の悪口を言うと、けっこう驚かれますもん。歴史の問題で「日本は悪いことをした」と言ったりすると、「ああ、そんな日本人がいるのか」と驚かれて。

 

●東ティモールでの「インターナショナル」

中川 2002年5月20日に東ティモールの独立式典があって、そこで歌わないかという話が来た。イギリスからはポール・マッカートニーやU2が参加するらしいけど、東アジアからはひとつもアーティストが出ないと。そういうことでソウル・フラワー・ユニオンに話が来て。俺は「おお、ついにポール・マッカートニーと一緒にやるのか」と思って、「やりましょう」と返事した。結局、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットで行ったんやけど、ポール・マッカートニーもU2もいない(笑)。東ティモールは長い間、ポルトガルの植民地で、1974年にカーネーション革命が起こって、ポルトガルは世界中の植民地を手放したんやけど、その後はずっとインドネシアの圧政下にあった。その式典には、ブラジルやアンゴラなど、ポルトガル語圏のバンドがいっぱい来てて。つまり旧宗主国のポルトガル語圏の連中が、東ティモールの独立式典を仕切ろうとしてるわけ。会場はけっこう広いんやけど、ステージの感じとかは村祭りみたいで(笑)。そこにはPKOで行ってた自衛隊の若者たちが来てたんやけど、俺らが「インターナショナル」とかを演奏したら、それに合わせて楽しそうに踊ってる(笑)。で、ポルトガル語圏の国からやってきた司会者は、俺らの演奏を2曲で止めようとする。「どうも、日本のソウル・フラワー・モノノケ・サミットでしたー」って入ってきて、早いこと終わらせようとする。

松本 なんでですか?

中川 とにかく仕切りが滅茶苦茶なんよ。時間が相当押してて。でも俺らは「もっとやる」って言って無理やり4曲やったんやけど(笑)。その2日後、メンバー全員でトラックの荷台に乗って、首都のディリから3時間ぐらいかかるリキサっていう村に行った。リキサでは99年に大虐殺があって、民兵が東ティモール市民を殺しまくったんやけど、そこで交流会をやろうと。小さい広場で、まさに村祭りみたいな感じ。村の人たちはみんな明るいんよね。松本君も、そういう感じ、わかると思うけど。あそこまでひどい目に遭って、家族を殺されたりしてる女性もいるんやけど、とにかく明るく迎え入れてくれる。俺らが行ったのは2002年やから、凄惨な記憶はまだ新しいはずやのに、すごく明るくウェルカムしてくれる。独立を成し遂げたこともあって、穏やかな顔で虐殺の話をするんよね。かなり衝撃的で。

 その時、つい最近まで山岳ゲリラで戦ってた連中が「東ティモール社会党をつくりました。あなたたちに会いたかった」と言ってやってきて。彼らは全員チェ・ゲバラのTシャツを着てたんですよ。しかも今日おろしたてという感じで、新品。それを見て、俺はぐっときてね。日本から来客があるということで、彼らはおしゃれをしてるわけ(笑)。 

松本 なるほど、頑張って着たんだ(笑)。

中川 俺はそういう感じがすごく好きで。で、彼らが言うには、「『インターナショナル』という曲があるのは知ってたけど、長い間圧政下にあったから、そういう曲を聴くことができなかった。わが国にはそういう社会主義的な文化がまったくなかったから、今日やっと聴けるので嬉しいです」と。「えっ、東ティモールに『インターナショナル』を伝えるのが俺かよ!?」(笑)。

松本 それはモノノケ・バージョンでやったんですか?

中川 そう、モノノケ・サミットで行ったからね。たまたま「インターナショナル」が入ってるソウル・フラワーのCDを持ってたからその人たちにあげたら、えらい喜ばれて。「これで私たちも『インターナショナル』を歌える」って。「いや、これはちょっと違うから」みたいな(笑)。

松本 それが広がっていったら、面白いですね。