愛のある批評

Dr.ハインリッヒの漫才を見るためには (1)

人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
第3回は、西村が女芸人のうちで唯一、比較的穏やかな気持ちで接することのできる漫才師Dr.ハインリッヒについて。

1.女芸人という不安、それからDr.ハインリッヒの印象
 そうか、私は金属バットに甘えていたのだな。
 2022年11月17日に、毎年開催されている日本一の漫才師を決める大会である「M-1グランプリ2022」の、準決勝進出者が発表された。何度も見返したがそこに「金属バット」の名前は無かった。結成15年になる彼らの出場資格は今年までである。まだ、準々決勝の動画の視聴者数を一番多く稼いで、ワイルドカード枠で準決勝に上がれる可能性は残されていたが、あまり何度も同じ動画を視聴するのも憚られた。筆者にとって重大だったのは、金属バットが敗退したこと自体ではなく、金属バットが敗退しハイツ友の会が勝ち上がった、という事実である。金属バットが落ちハイツ友の会が準決勝に駒を進めたという事実は、筆者に反省を迫っていた。筆者の中で長らく続いてきた、女芸人に対する苦手意識に向き合え、と。
 今度こそ、本当に今度こそ女芸人の時代がくるかもしれない、と思った。それは筆者にとって実のところ、不安でしかなかったのである。
 女芸人が苦手だ。彼女らが何か言われているのを、見たり読んだりすることが苦手だ。存在するだけで、力関係の勾配により己の存在意義が測られてしまうような彼女らを見ているのは嫌だ。流行りの考え方を取り入れたりキャラを変えたりして戦略的に生き残っていこうとしているのも、閉じ籠もってネタをしっかり仕上げているのさえも、見ていて心のどこかでは楽しくない。彼女らは、女に何がわかるといって排除されるか、評価されるにしても、うまく男芸人のやっていることを踏襲しているといって無害なものとして愛でられるのが関の山である、と思ってしまうからだ。あるいは、そんな彼女らの窮状を心配するようにして独自の強度をもつファンコミュニティが出来上がっていくのを、筆者はただぼんやりと見ているだけだ。
 女芸人が擁護されているところを見るのは、どうしても我慢がならない。女芸人の大会「THE W」では、聞くところによると、敗退した者は「僅差だった」とフォローされるらしい。舞台から離れたところでも、彼女らのことを擁護する人は少なくないだろうが、その擁護される様子も含めて、女芸人とは女の生涯の縮図である。それがどういった性別の人から発されるのであれ、やっかみも称賛も包摂し自分の力に変えていくのが女の常である、とは一般化の雑さが過ぎるかもしれないが、要するに、彼女らの存在をそのまま自分のこととして捉えてしまって(勝手に筆者の生き方に重ね合わせてしまって)、見ていて居心地が悪い。笑うことは、どれほど一瞬のことに過ぎなくとも、現実を忘れる行為ではなかったか。そうはいっても、現実から一瞬でも離脱させる魔力のようなものが、お笑い界全体から失われて久しい。

関連書籍