さて、筆者が唯一、女芸人のうちで比較的穏やかな気持ちで接することのできる対象として、Dr.ハインリッヒという漫才師がいる。
Dr.ハインリッヒは、吉本興業所属の双子女性漫才師。筆者がその名前を知ったのは、ちょうど金属バットの漫才の動画を漁っていた頃のこと、関連動画ではじめて知ったのだと記憶している。とうにその頃筆者はテレビを見なくなっていたが、あれは確か3年程前、お笑いコンビ・馬鹿よ貴方はの新道竜巳のYouTubeチャンネルである「馬鹿よ貴方は、新道竜巳のごみラジオ」のサムネイルで彼女らの名前を見た。金属バット、デルマパンゲ、Dr.ハインリッヒ、という並びだった。彼女らの「ファンタジーエピソードトーク漫才」を、女芸人の文脈で知ることとならなかったのは、今思えば幸福であった。
この三組は、それぞれ異なる感受性をもってエピソードトーク漫才を実践してきた。金属バットとデルマパンゲの場合、殺伐とした情景が、突飛で空想的なモティーフを含みつつ、ボケとツッコミの声色のはっきりしたコントラストでもって描出されていく。他方Dr.ハインリッヒの場合、話の内容から人間味や現実味はことごとく捨象され、空想が自力で歩き出すかのようである。彼女らの黒い衣装は身体を透明にし、ネタの言葉を浮かび上がらせる。双子であるがためによく似た声が組み合わさって、漫才は対話というより独話に聞こえることがある。二人の意思のぶつかり合いが見えづらく、しばしば彼女らの漫才に採用される神話的モティーフの羅列と、彼女らのなめらかな発話の折り重なりは、相性がいいものと感じられる。「波動」「周波数」などのスピリチュアルな言葉がフリートークでよく飛び交い、タロット占いを動画やライブで披露することもあって、彼女らの美意識とお笑い観は、何か疑似宗教的ですらあるような超越的な感覚に裏付けられている。
Dr.ハインリッヒの漫才は、ボケとツッコミというフォーマットはおろか、ダブルボケという設えさえもほとんど過去のものとしているかのように見える。それはキッチュな、奇想の語りものである。ボケの役割の側(幸)から語られる不思議な話に対し、ツッコミの側(彩)は否定するでもなく、観客のためにパラフレーズすることもあまりなく、ときに話の内容を繰り返すなどして反応する。二人の掛け合いで奇想は時間が進むにつれ強化されていき、だが、時間になると特に脈絡もなく漫才は断ち切られるように終わってしまう。
ネタの中には、視覚的イメージと、歴史的に重みのあるモティーフとが、入れ替わり立ち替わり登場する。「みょうが」という漫才において、犬はみょうがであり、さらにしばらくすると香港返還というキーワードが登場し、この飛躍が笑いを誘うことになる。言葉とイメージとがあまりに結び付きが薄いことが多いため、観客は、その奇想のもつインパクトに身をさらしているうちに、思わず笑ってしまう。
彼女らもまた他の芸人と同様、アウェイの環境で仕事をしなくてはならないことがある。お笑いファン向けではないバラエティ番組に参加することはあまりないだろうけれども、テレビで漫才を披露すれば、普段彼女らを見慣れていない視聴者が他の出演者の芸と見比べることにもなるだろう。そうしたとき、彼女らとしても漫才や女芸人といったカテゴリー、つまりは他人と交通する経路をまったく持たないわけにもいかないのだった。
思えば、彼女らもM-1グランプリは準々決勝までしか進むことができなかった。2020年最後のネタは「独特の舞」と呼ばれる、彼女らにしてはポップで笑いどころのわかりやすい、動きを交代で披露し合う形式のものだった。あのとき彼女らは、せっかく衣装の力で透明になった身体を、軽やかな身体表現でもって再び浮かび上がらせねばならなかったと、筆者にはそう見えた。その表現には彼女ららしくないことのおかしさがあったが、そんな細かなニュアンスなど、賞レース全体にとってはどうでもよかったのだろう。
普段の寄席やライブ以外の、テレビなどの他のメディアに出ているのを見てみても、結局何かが伝わっていないように見えてしまう。うまくいっていないだとか、売れていないだとか、そういうことではない。彼女らの方に欲望を仮託できるよりしろがない。彼女らは職人だ。彼女らの本体はいつも、漫才にある、ひとつひとつの言葉の方であるかのようだ。
人によっては、彼女たちを、パフォーマンスからではなく、インタビューやトークで知ることもあったのかもしれない。彼女らの、漫才や大喜利などのパフォーマンス、いわゆる「お笑い」は、今風に言うとかなり「クセが強い」。その半面、特にインタビューだと、良く言えば真面目である。金属バットのインタビューの受け答えがあまりにもでたらめなので、比較してそう感じてしまうというのもある。インタビューの筋書きは大抵決まっている。昔いかに周囲から理解を得られなかったかを語り、最近の周囲に対しても一言言い置く、そうした次第だ。「フェミニズム」という言葉も登場する。彼女らには、わきまえない、声を上げる漫才師という側面がある。
とはいえ、彼女らの経験、彼女らの不定形な漫才は生半可ではなく、消費者の思いを仮託できるようなものとは言えないように思う。Dr.ハインリッヒのことを愛でるようにして消費することは難しい。他の兄弟芸人、双子芸人もそうだが、そもそも二人の関係性を消費するのが難しいのである。思えば、中川家(兄弟)も、ダイタク、吉田たち(いずれも双子)も、職人気質で、黄色い声援が飛んでくる印象はあまりない。
彼女らのことを消費できるとすれば、ファンは、Dr.ハインリッヒというある種の不可侵領域の前に佇み、彼女らのことを好きな自分という像を消費するくらいしかできないのかもしれない。彼女らがやっているのは、消費と無縁でいたい漫才のようにすら見える。それはある一部の、もはや商業ベースでは立ち行かないハイカルチャー領域の創作と同じように、閉じたコミュニティによる受容を前提にして、誤読も歪曲も許されないとされるもののようだ。だが、そもそも漫才は、読み取るものだったのか。誤読したり意味内容を歪曲して受け止めたりする対象だったのだろうか。彼女らは漫才自体を新しいゲームに乗せているのだ。それで、彼女らは自分たちのファンのことを「信徒たち」と呼ぶのだが、ある種のパロディー宗教を当人らが自覚するほどに広がりを欠いた受容については、少しだけ気がかりだ。
女芸人の時代。新時代の到来の予感は不安に満ちている。彼女らの非日常的な漫才を集中的に長時間見続けていると、かえって、女芸人一般の困難さについて考えを進めていってしまうのである。奇想は、現状に対する否定と現実的なものの欠如の表現でもあろうから。「この世にはね、伏線を回収しない物語があるのです。伏線は回収しないし、喜びもないし、悲しみもない。病もないし、老いもない。何もないんですよ」(漫才「砂漠」より)。漫才の中の言葉の数々もまた、因果関係を結ばず、ギリギリ残された漫才の形式感の中になんとか繋ぎ止められ、展開の面でみても予想は翻される。こうしてDr.ハインリッヒの表現は、抵抗し逃走するようにして生き生きとした表現になっていく。
人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
第3回は、西村が女芸人のうちで唯一、比較的穏やかな気持ちで接することのできる漫才師Dr.ハインリッヒについて。
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