2.「筆者はいつの間にか甘えていた。依存心だな、これは。安心しきっていた」
話を戻そう。金属バットの敗退を機に筆者は次のように思った。消費におけるファンの熱狂とは、ファン自身の価値判断を体系ごとシステムに委ねることなのだろう、と。
そもそも価値判断の体系というのは、天から突然降ってくるようなものではない。ファンであれ批評家であれ、個別具体的な作品・事象・経験を通じて、客観性なども考慮しながら自分でつくりあげていくものだ。だから、その過程でかかわってきたものに対し価値判断をすることは、どこかトートロジカルなところがある。それは、対象との母子密着的関係とでも言いたくなるような経験である。
価値判断は対象に依存する。対象に何か変化があれば価値判断は変化を被らざるを得ないが、大抵、ファンは自分の価値判断の体系が傷つかないように行動しがちである。冷めて関心を失うか、また別の似たような対象に関心を移すだろう。別のジャンルに移動することもあるだろうし、特に反省もなく対象の所為にする場合もあるだろう。
近年のお笑いへの関心が、金属バットの漫才を見たことにより喚起された筆者にとって、金属バットは価値判断の体系の中心にいる。一番好きとかそういう問題ではない。というのも近頃では彼らの出演する動画もラジオもあまりつぶさにチェックしていないのである。それに、M-1グランプリで結果を残さなくても彼らのキャリアにとってはさほど問題ではないのだろうとも思っていた。だが、彼らが敗退したことで、自分の中で金属バットの漫才が、他の芸人に対する価値判断をも規定する存在となっていたことに改めて気が付いた。
思えばM-1グランプリもAKB48もシステムである。ファンは、自分の価値判断を体系ごと、システムに委ねてしまう危険性を回避できない。「指原莉乃がAKBを終わらせた」などと言い始めるのは、システムの中で自分の価値判断が危機に晒されるときのことだったのではないか。その辺りの事情については前回、前田敦子と秋元康の存在を知らず知らずのうちに不問にする、AKB論壇の内部で働いていた心理機制を、父だの母だのと批判したのだった。それは筆者にとっても無縁ではないと今になって思い知らされ、打ちひしがれていた。
私は少し前に収録されたポッドキャスト「THE SIGN PODCAST お笑い地政学~氷と炎の歌~」において、「ヨネダ2000は私の中ではすでに優勝した」と発言したのであるし、またハイツ友の会については、宇野維正の「ハイツ友の会は金属バットの女性版なのだと思っていた」という発言に対し、私はその考えをなんとなく受け流しつつ、「私はハイツ友の会の漫才を見ると、あぁ今日もまた漫才が始まらなかったと思う」「ハイツ友の会の漫才は、どこか漫才以前のところで成立するようなところがある」などと発言した。受け流したという事実は今振り返ると重要である。反省するに、金属バット/ハイツ友の会という対称関係を提示された筆者は、その見立てにピンとこなかったから受け流したのではない。まさにその対称関係を、対称関係の提示自体を、拒絶し抑圧したのである。そこにハイツ友の会以外の女芸人が代入されていたとしても、受け流したことだろう。筆者には、対象との母子密着的関係に異物が入ってくるのを拒んだようなところがあった。筆者は、ヨネダ2000とハイツ友の会という二組のことを、漫才の制度の成立条件を揺るがす表現力をもっていると思う。そういう趣旨で上記のように発言したのだが、これは誰もそうは指摘していないが、受け取りようによっては彼女らに対し侮蔑的ではある。筆者は、女芸人のさらなる周縁化に加担したようなところがあったのだ。
「ヨネダ2000は私の中ではすでに優勝した」という実感は嘘ではない。去年のM-1グランプリの敗者復活戦で、ネタは「YMCA」を口ずさみながら寿司を製造する内容だったのだが、その発想力に度肝を抜かれたものだった。何より、他の芸人がパフォーマンスに自分たちの人生をかけているがために、舞台全体に重苦しい空気が漂うなか、二人の自意識のなさ、軽さは際立ったものに見えた。あの時、お笑いの中心に、外部がたち現れたと感じた。思い返せば、パフォーマンスの質について言えば去年からすでにヨネダ2000は金属バットを超えていた。それでも筆者の「ヨネダ2000は私の中ではすでに優勝した」という発言は、金属バットよりもヨネダ2000の方が上だという価値判断を示したわけではなかったのだと思う。というのも、金属バットが中心にいないと、この価値判断はできなかったのだから。金属バットを好きじゃないと、ヨネダ2000のネタの素晴らしさをわかることはなかったと思う。それは趣味の問題に尽きるものではないし、両者の類似性とか技術論的な話で説明し切れることもないのだと思う。
価値判断の体系のうちには、何かが「中心」に、また別の何かが「周辺」へと位置付けられていく。「スタンダード」とそれ以外と言い換えてもよいかもしれないが、これは世間の価値観と一致するとは限らない。お笑い界でも「中心」と「周辺」の対立項は実際にまだ効力を失っていないことだろう。吉本興業と他事務所、男芸人と女芸人、正統派漫才と色物漫才、マスメディアとその他の媒体、等々。
金属バットはそもそも正統派とは見なされない、どちらかと言えばお笑いの「周辺」的存在だ。しかしかつて「中心」的だったであろう、しゃべくり漫才の復権という側面をもつ漫才師でもある。ヨネダ2000もまた「周辺」的だが、もはやトラックメイカーとも見紛うほどに徹底的に音楽の形式によって漫才の形式を破壊している。彼女らは外部の「中心」の力を取り込んでいる、そうした「周辺」だ(彼女らがネタに取り入れる音楽は、ベタでなくてはならないように思える)。金属バットの「周辺」性は、形骸化を経て新たに生を受けたかつての「中心」であり、ヨネダ2000の「周辺」性は、これからの「中心」であるかもしれない、と思う。こうして筆者のなかで、「中心」と「周辺」の時間性とも言える契機が、両者を繋ぎ止めている。どのみち、「中心」や「周辺」の何たるかを、金属バットを軸に考えて、その後にヨネダ2000のことを当てはめているのには変わりない(筆者のうちで、「中心」は「ジャンル内在的」と、「周辺」は「ジャンル外在的」と言い換えられているのである)。金属バットの判断基準の機能を絶対化させるために、ヨネダ2000という才能の到来を寿いだことは否めない。
人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
第3回は、西村が女芸人のうちで唯一、比較的穏やかな気持ちで接することのできる漫才師Dr.ハインリッヒについて。
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