そして、難しいものだが、あるものをスタンダードであると言っても侮蔑的になることはほとんどなさそうなものだが、それ以外を辺境的であるなどと言うと、それをスタンダードなものの下に位置付けてしまったようなニュアンスが出てしまうだろう。特に、お笑い界において長きにわたってその度ごとに勃発していた、女芸人たちの孤軍奮闘を思い起こすに(それは、大御所の男芸人から受ける彼女らの容姿へのイジリを思い出すだけで十分だ)、女芸人を「周辺」へと振り分ける価値判断は、それ自体問題含みなものとなってしまう。彼女らの来歴ゆえに、女芸人それぞれを、「中心」と「周辺」の対立項を前提に、また好みの問題として片付けることはできない。しかし、かといって価値判断の体系を捨てろというのは無理な話だ。
またしても前回の話に戻ってしまうが、思えば、AKB48というシステムはひとつの価値判断の体系に代替するものであった。このシステムへ積極的にコミットすることは、ファン各人のうちにある価値判断の体系をシステムのそれに置き換えてしまうことでもあった。だからこそ、小林よしのりの大島優子に対する愛は端から見たら滑稽であるし、かといってこの滑稽さを愛すること一般の滑稽さとみなすことはできないのである。ファンカルチャーに関わるほとんどの人間は、筆者も含めて、あの頃の小林よしのりをそう簡単に笑うことはできない。
私は自分の価値判断を反省する。そしてこの反省は、とうとう金属バットがM-1グランプリの決勝に進出しなかったからこそ、可能になったものである。だが、自分の価値判断を改めるとは言っていない。その代わり、自分の価値判断のうちで、別のことを考えてみようと思う。
例えば、次のように。男芸人と女芸人とでは何か非対称的な関係が成立することについて(そもそも男芸人などという言い方は一般的に存在しない)。非対称であるがために、女芸人はあらかじめ周辺的で私的な表現の道を突き進むしかないのだとしたら。ハイツ友の会の漫才、あの感情を極力排した、毒気もある、ときに「いらち」でときにニヒルな会話のやり取りは、男性から見たら単に周辺的かつ私的なものとして片付けられて、それっきりになってしまうのかもしれない。筆者はハイツ友の会を見ていると、M-1グランプリで唯一決勝に進出した、OLのアマチュア漫才師・変ホ長調を思い出す。そして、当時の審査員がほとんどまともに彼女らのことを取り合わなかったことも思い出す。対象を取り扱う方法がないと、多くの場合対象を排除してしまう。対象が新しい方法を提示しているにもかかわらず。その点、何か新しい対象を見たいと思う気持ちは、少なからず欺瞞的だ。新しい対象を見たいと思えば、人は、周辺的で私的だと思えるものに、自分の価値観を外側から壊しに来てほしいと勝手に期待するものなのかもしれない。筆者は、金属バットを中心に据えた価値判断を、そうとあまり意識せずに続けているうちに、金属バットの存在を破壊するものを欲するようになったのかもしれない。
価値判断の体系を変えるなら、少しずつ、対象に何か思いを仮託することを避けて通るわけにはいかないのではないか。価値観のアップデートというのも、基本的には各人が身勝手にしかなしえようのないところがあるのではないか。それでもなお、「周辺」を「周辺」として、価値判断の事情から「周辺」を欲しないようにして、価値判断することは可能か。筆者は今、そういうふうにしてDr.ハインリッヒという漫才師について頭を悩ませている。Dr.ハインリッヒは面白い。けれど筆者の価値判断の体系に傷がつかない。(つづく)
人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
第3回は、西村が女芸人のうちで唯一、比較的穏やかな気持ちで接することのできる漫才師Dr.ハインリッヒについて。
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