愛のある批評

Dr.ハインリッヒの漫才を見るためには (2)

人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
女芸人を擁護する言説こそ息苦しい。その感覚を突き詰めて見えてきた、女芸人の正体。

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3.擁護されるという困難 
 筆者の抱く女芸人に対する苦手意識は、まず彼女らに対して行われてきた価値判断に起因する。芸人の言葉でも、部外者から仮託されるように与えられた言葉でも、息苦しさがある。
 しかも、批判的であるよりも擁護するような内容の方が、一層息苦しいのである。最初の例として、漫才コンビ・ナイツの塙宣之が述べていた、女芸人の芸についての所感を挙げよう。

 二〇一八年の『女芸人No.1決定戦THE W』は彼氏いないネタばかりで、正直、観ていてしんどくなりました。
「私、今まで付き合ったことないんですよ」みたいのが始まると、僕は「その前にネタ見せてくれる?」という感覚になってしまうんです。
 女性だからといって、容姿をいじるネタでなくてもいいと思います。僕らのように時事ネタを扱ってもいいわけです。女性で時事ネタをうまく扱ったら間違いなく目立つじゃないですか。そんなコンビいないわけですから。
 事務所のネタ見せで「そんなんじゃ使ってもらえねえぞ」みたいに言われてしまうのでしょうか。だとしたら、気の毒です。
 テレビは、イケメンの役者が来たら、女芸人にいちいち「カッコいいですね」と言わせるような風潮があります。僕は大嫌いなんですけどね、あれ。女芸人も内心は「そんなのいいだろ」と思っているのではないでしょうか。ただ、そういう圧力がある以上、本気でちゃんとしたネタを作れる女芸人は現れないと思います。
 ちゃんとしたネタとは何かというのも難しいところですが、一つの定義として「他の人でも演じることができるネタ」と言うことはできるかもしれません。(塙宣之『言い訳――関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』集英社新書、2019年、57-58頁)

 第一線で活躍する芸人に、筆者のような素人が意見できるはずもない。ただ、単純な疑問がいくつか浮かぶので、それをもとに考えを発展させてみようと思う次第である。
 まず、ネタにはどうやらヒエラルキーがあるのだろう、と上記から汲み取ってしまう。時事ネタはちゃんとしたネタで、彼氏いないネタは、ちゃんとしていないネタなのだろうか、という疑問が浮かぶ。筆者は大会の趣旨がわかりかねるため当該大会を見たことがないからなんとも言えないが、彼氏いないネタに、そういう類いのネタ特有のつくりこみの甘さがあるというなら、プロが指摘しているのだからその通りなのだろう。当事者性が、そのままオリジナリティに転じるほど芸の世界は甘くはないのであろう。だが、仮にもし彼氏いないネタがこれから減少していくとして、そのことをもって女芸人の芸もレベルが上がったなどと誰かが言うのなら、その価値判断は大概疑わしい。レベルが上がったかどうかは、外部からのまなざしだけで決定できるものではないはずである。
 上記の発言では「時事ネタを扱ってもいい」と提案されている。だが個人的には、女芸人が時事ネタで世相を切って笑いが起こる画が想像できない。もちろん、どんなネタにも多かれ少なかれ何らかの時事性はあるが、ナイツが独演会でやるような、あるいは爆笑問題が年末に披露しているような、漫才全体が時事問題で構成されたものとなると、なかなかイメージしづらい。男女コンビである納言・薄幸が街に毒づいて笑いが起こるくらいが、現状では限界であるように思える。もし女芸人の時事ネタが受け入れられる余地があるのなら、元々お嬢様学校あるあるのフリップネタで人気を博し、現在では社会系YouTuberとして活動している、たかまつななはもっと人気が出ているはずだ。彼女の発言は時事ネタとしては受け入れられず(いつの間にか彼女は芸人とは名乗らなくなっていた)、真面目に受け止められて炎上の火種にされてしまうこともあるようなのである。
 それと、そもそも彼氏いないネタ「ばかり」だと言うなら、それは彼女らの間では「他の人でも演じることができるネタ」だと言うことはできないのか。確かに、「他の人でも演じることができるネタ」が含意するのは、ありふれた定番のことではないのだろう。台本だけ読んでもすでに面白い、面白さにある程度の普遍性、再現性があるもののことを言っているのだろう。だが、疑問は残る。彼氏いないネタに不足があるなら、それは必ずしも普遍性と再現性の問題とは限らないのではないか。
 疑問が残ってしまうのは、「他の人でも演じることができるネタ」の含意するところを、要素を分解するように考えることが可能だからである。その要素には、普遍性と再現性の他にも、属人性を挙げることもできるだろう。「他の人でも演じることができるネタ」とは属人性の低いネタのことである、と。しかし属人性は程度と範囲の問題であって、コミュニティの性質から逆算して出てくるようなものだろう。芸人のホモソーシャリティとは、「他の人でも演じることができるネタ」が共有できる範囲付けのことなのではないだろうか。「他の人でも演じることができるネタ」は、男芸人と女芸人とで、そこまで簡単に共有できるものではないのではないか。身も蓋もないことを言えば、ナイツに彼氏いないネタができるとは想像し難い。そもそも属人性の問題で自分にできないネタを、普遍性並びに再現性がないかのように言いくるめているようにすら見える。
 上記の塙の発言は、読んでわかる通り基本的には女芸人を最初は批判しつつも全体としては擁護する趣旨にある。だが、注目すべきは、前半から後半に向けて擁護しようと発言を続けていくにつれ、男芸人の特権意識とまではいかないが、男芸人と女芸人との非対称性が浮き彫りになっていってしまうことだ。

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