愛のある批評

Dr.ハインリッヒの漫才を見るためには (3)

人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
松本人志は高笑いし、Dr.ハインリッヒは助けに来ない。それでも女芸人たちが培ってきた疎外と自閉の表現を、そのまま受け止めるために。

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4.「中心」の問題
 女芸人の時代が到来することが不安だ、と最初に筆者は述べたが、それはつまり、それが本当に彼女らの主体性によるものとなるのか、不安に思うという意味である。
 女芸人の時代が到来するなら、それは同時に男芸人の危機の時代の到来でもあるのではないか。近頃では、男らしい芸人が好んで消費されることは少なくなったように思う。天下を取り、MCで場を回し、ひな壇にいる若手芸人をどんどんイジっていくような男芸人のことを、仮に男らしい芸人と言うならば。それは価値観のアップデートだと一方的にもてはやされるきらいにあるが、価値観が難なくアップデートされるなんてことは考えにくいし、アップデートされるとしたら、それは闘争状態である。闘争はきっと内密裡に進行する。その際犠牲になるのは、アップデートを遂行しているともてはやされている側なのだと思う。オーセンシティとはマスキュリニティのことであるなら、多様性の時代とは(M-1グランプリは、マヂカルラブリー優勝以降はもう、漫才の正統性を問う大会ではなくなってしまったのかもしれない)、オーセンシティとマスキュリニティの生存戦略がむしろ主導権を握ることにもなりかねないだろう。それは、女芸人がオーセンシティとマスキュリニティの生き延び先を引き受けるか(ヨネダ2000のネタを見て、筆者はこれからの時代はストロングスタイルのネタはむしろ女芸人がやっていくことになるのかもしれない、と思った)、それらと何か相補的なものを宿すようになるか、あるいはもっとも悪いのは、それらがのうのうと生き延びるために、何か免罪符にさせられてしまうか。
 お笑い界における「中心」の問題を考えるにあたって、賞レースのことは無視できない。賞レースはもはや、笑わせるためにやるよりも、笑わせるための技術それ自体を披露する場になってしまっているのかもしれない。審査されるために、よりシャープに最適化された芸人の芸ばかりになってしまった。
 その最適化と相補的に、賞レース的でないものもまた行き渡っている。それは関係性の笑い、とでも言えるようなもののことだ。ファンが、芸人から直接笑わせられることを欲するのでなく、楽しそうに芸人が関係構築している場面に居合わせ、一緒に笑うことを欲するような類いの笑いのことだ。

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