ちくま学芸文庫

極北のインディアンの子どもたちを真剣に受け取る
原ひろ子『子どもの文化人類学』解説

極北のインディアンと11カ月間をともに過ごし、フィールドワークを行った原ひろ子氏。本書はその数々の経験をもとに親子・子どもの姿をいきいきと豊かに描いた名エッセイです。気鋭の文化人類学者である奥野克巳さんにお書きいただいた解説を全文公開します。奥野さんは本書を「ザ・文化人類学」と呼びます。

 ヘヤーの人たちは、あそびながら、つまり楽しみながら、子育てをします。女だけが育児を担当するのではありません。誰もが「小さい者」についてよく知っていて、「あそんでやる」とか「子どもを危険から守ってやる」とは考えていません。逆に、自分たちが子どもに楽しませてもらっていると感じているのだと言います。

 ヘヤーの人たちは、子どもの生態を観察して、人間について学んでいるのだとも言います。それに対して、日本の親の中には、子どもにこうあってほしいと願う度合いが強いため、子どものありのままの姿が見えない人がいるのかもしれません。

 その意味で、ヘヤー・インディアンは、子どもたちをあるがままに見ることの達人だと原は言います。アロペアレンティングを含む彼らの子育てとは、たんなる子どもの世話ではなく、育児の楽しみです。

 あそびながら楽しんで子育てをしていると言っても、ヘヤーの人たちは、子どもを決しておもちゃにしているのではないと原は言います。そうではなくて、彼らは、子どもをおとなと対等の独立した人格として扱っているのです。だからおとなは子どもに対して謙虚なのだと言います。

 白人の旅行者や商人の記録には、ヘヤー・インディアンは「しつけ」をしない下等な人たちだという記述があります。この見方は、ヘヤーの人たちがあそびながら楽しんで子育てをしていると評価する、原の見方とまるっきり逆です。

 両者の意見の大きな隔たりから、私たちは、子育てとしつけのやり方に関して、様々な見方や考えがあることを知るでしょう。そしてそれらのことを、あれこれ悩みながら、実際の子どもに向き合う時のヒントにしていくことができるのです。

 5つめは、男女の分業についてです。

 ヘヤー・インディアン社会では、子守りや食事の準備、テントの移動、設営、薪集めなど、男女がいずれも従事します。ムースやカリブ(トナカイ)などの野生動物の狩猟は男性が行ないますが、皮なめしはほとんど女性が行なうようです。ウサギ狩りやテンなどの罠猟は、男性の収穫量が多いとはいえ、男女ともにやります。ヘヤー社会では、男女の仕事にほとんど区別はありません。彼らは機に応じて各自が全力を投入して、飢えや寒さに立ち向かうのだと原は述べています。

 原は、男女の分業に関して比較のために、イスラエルのキブツの事例を取り上げています。キブツの基本理念は「人間の自由と平等」なのですが、母乳で育てることを奨励したため、授乳中の母親は「乳児の家」の近くでできる作業をするようになりました。その結果、サービス業は女性、生産労働は男性という分業が行われるようになったと言います。近代合理的な社会の仕組みの中では、男女平等の理念の実現は難しいということでしょうか。

 原の望みは、家事に向かない女性が悪女呼ばわりされず、家事をしている男性が男らしくないと決めつけられることがない社会を築いていくことだと言います。社会のメンバーがみな単一の生業に従事して、厳しい自然環境を生き抜くヘヤー・インディアンのような社会以外では、ことによると、そうした理想の実現は難しいのかもしれません。それはそうだとしても、ヘヤー・インディアンのような、私たちにとってなじみの薄い社会の人たちのやり方に目を向けることで、男女の格差や分業などについて思索を深めるための想像力を養っていくことができるでしょう。

 6つめは、学びとは何かについてです。

 私たちは、教えたり教えられたりすることは、人類に普遍的なことだと思っているかもしれません。しかし、ヘヤー・インディアンと付き合ってみて原は、それらのことは必ずしも絶対普遍的なことではないと考えるようになったと言います。

 ヘヤーの人たちに、どのようにして、物事を覚えたのですかと尋ねると、専ら自分で覚えたのだという答えが返ってきます。誰々から習うとか、誰某から教えてもらうという言語表現は、ヘヤー語にはないとも言います。

 ヘヤー・インディアンの文化には、教えてあげるや教えてもらう、誰々から習うということがないのです。彼らは、「自分で観察し、やってみて、自分で修正する」ことによって物事を覚えるのです。こうしたこともまた、ヘヤーの人たちが、子どもをおとなと対等に、独立した人格を持つ者として接していることに少なからず関係するように思われます。

 自分自身で覚え、学ぶヘヤー・インディアンのような社会では、「師弟関係」のようなものも存在しません。先生の役割、生徒の役割という役割関係がないのです。原はそこから考察を一歩深めて、ヘヤーの人たちは、「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」と考えているのだと述べています。人間に対して指示を与えることができるのは、ただ守護霊だけなのです。

 原は、自分で覚える必要があるので、ヘヤーの人たちは景色や、ものの形などを記憶する能力が高いと言います。彼らは、目の前にあるものをよく観察し、独力でものを作ったり、物事にあたったりするのです。

 だから、折鶴を折っていても、ヘヤーの子どもたちは、じゃあ、今度は違う折紙の折り方を教えてほしいと原にねだってくるようなことはなかったと言います。彼らは、何が行なわれているのかをじっくりと観察して、やってみて、修正しながら独力でものを作り上げるのです。

 この点に関して原は、とても興味深い考察を進めています。

ヘヤーの子どもたちが、折鶴を覚えるときには、その紙と子どもの間に強い交流が存在するのであり、彼らは、私と紙との間にある交流(つまり私が折紙を折っている状況)を、自分で再現しているといえると思います。ですから、子どもと私の間の交流は彼らにとって、主観的には重要でないのです。

 ヘヤーの子どもたちにとって、ものを作る時、作り方をすでに知っている人、つまり先生と相互作用しながら学んだり、覚えたりはしないのです。彼らにとって大事なのは、紙との間で相互応答を続けながら、もの作りを進めていくことなのです。私たちは何かを学ぶためには、まずは誰かに教えてもらわなければならないと考えるでしょう。しかしヘヤー・インディアンの社会では、学ぶことは必ずしも誰かに教えられることではないのです。

 このことから言えるのは、先生がいて生徒がいることだけから、必ずしも学びが成り立っているのではないということです。誰かがやっていることをよく観察しながら、自分の目の前にあるものとの相互作用をつうじて、やってみてうまくいかなければ修正し、少しずつ完成に向けて進んでいくこともまた学びなのです。

 いま一度、ひるがえって、私たちの問題としてこのことを考えてみましょう。私たちは、先生がいて生徒がいるということが学びの基本だと思っているのかもしれません。でも、そうしたやり方だけではなく、ヘヤー・インディアンのような学びのやり方もあります。私たちは、私たちにとってあたりまえになっている学びの基本にあまりにも忠実なために、かえって学びを硬直化させることになっていないでしょうか? そうした問いかけが、ここでの原のメッセージなのです。

これまで、本書の論点を6つに絞り込んで見てきました。

 このような考察を可能にしたヘヤー・インディアンの人たちとの暮らしを振り返って、原は最後に以下のように述べています。1973年のことです。

1960年代の初期に私が接した「自分で覚える」ヘヤー・インディアンの個人個人が、おとなも子どもも、それぞれ、自信にみち、生き生きとしていたことが忘れられません。彼らは、自分自身で主体的にまわりの世界と接し、自分の世界を自分で築く喜びを知っている人間の美しさをもっていました。

 ヘヤー・インディアンの人たちが、自分で覚えようとして、自信にあふれて生き生きしているさまに原は強く印象づけられたのです。それを、美しいとまで言っています。

 帰国した原は、日本の教育制度に関して、以下のように述べています。

日本に帰って来て、まわりを見まわしたとき、子どもも、青年も、「教えられる」ことに忙しすぎるのではないかと思うようになりました。もちろん、はじめに述べたように、私たちが住んでいる現代日本の文明社会においては、一定のカリキュラムにもとづいた教育が必要であることは認めます。しかし自分の心に浮かぶ好奇心を自分のペースで追求していくためのひまがない子どもが多いことは、悲しいことだと思います。

 たしかに、小学生から大学生にいたるまで、日本の子どもたちは、「教えられる」ことに忙しすぎます。そのことによって、自発的に覚えたり学んだりする喜びを体験できなくなっているというのは、考えてみればとても不幸なことです。

 この言葉が発せられたのが1973年だとすると、それからすでに半世紀が経ちました。子どもたちが、よく見て、自分でやってみるために、おとなたちもまたゆとりを持つというふうには、どう考えても進んできていません。教育の現場に限って言えば、生徒も教員もますます忙しくなってしまっているように思えます。

 極北の地を始めとして、地球上のあちらこちらから届けられる、子育てや親子関係や男女の役割や学ぶことといったトピックについての貴重な数々の報告を、私たちはいま一度真剣に受け取ってみる必要があるのではないでしょうか? 私たちは、遠く離れた場所の子どもたちのことは、私たちにはまったく関係がないと思ってしまうのかもしれません。今からでも決して遅くはありません。極北のインディアンの子どもたちの育ち方、育てられ方を真剣に受け取るべきでしょう。

 本書は1973年から76年にかけて書かれたエッセイがもとになっていますが、半世紀が過ぎても、そのメッセージ性は、色褪せるどころか、ますます重要性をもって私たちに迫ってきます。だからこそ、読者は、やさしげな語り口で、全編にわたって分かりやすく語りかける原の文体にまどわされて、ほのぼのとしたいい話として読むだけで、本書のラディカルなメッセージを読みあやまることがあってはならないでしょう。

 本書には、現代社会の子どもをめぐる状況に対する批判的な視点だけではなく、それを考え深めていくための大切なヒントや手がかりがたくさん隠されています。



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