愛のある批評

「丸サ進行」と反復・分割の生 (1)

人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
第4回は、西村の本領である音楽批評。「丸サ進行」を取り入れた楽曲群が体現する、音楽にとっての自由について。

 まとめると、「丸サ進行」はどっちつかずのニュアンス、展開の無さという二つの特性を基本的には持つものである。そして、メロディーラインが少し書きづらいという難点があるものの、基本的には便利な道具である。こうした点が、近頃の若い感受性と相性が良かったのではないかと思う。VI-V-I~に似たループ系のコード進行のうち、VI-VII-I~もよく使用されている。これも含めて「丸サ進行」と呼ばれる場合もあるかもしれず、厳密な定義はないようだ(厳密に「丸の内サディスティック」と同じものとなると、ほとんど存在しないことになるから)。この原稿ではVI-V-I系統とVI-VII-I系統は別のものとして扱うことにした。どちらが使われているかで作品のニュアンスが変わってくるのであるし、それにこの両方を組み合わせると新たに表現を獲得できる。
「丸の内サディスティック」と「丸サ進行」との間に、どういう音楽史の発展があったといえるのか、この原稿では詳しく立ち入る余裕がないが、重要なアーティストとして、相対性理論について言及するに留めよう。VI-VII-I系統の「シンデレラ」と、VI-V-I系統(丸サ進行)の「気になるあの娘」が、昨今の「丸サ進行」楽曲群の先例とも言うべき存在なのではないかと筆者は考えている。

「シンデレラ」は前奏とAメロがIV-V-I-IIIで、Bメロ、サビがVI-VII-I-IIIとなる。テンポはまったりしているが、同じコードの反復が歌詞にある「2ストロークのエンジン」の駆動を象徴しているようにも聞こえ、全体としては先へ先へと進んでいくような音楽である。加えて、歌詞の内容としては「夜」の表現になっている点も、最近の「丸サ進行」作品と通底するところだ。Ado「夜のピエロ」、imase「NIGHT DANCER」など、「丸サ進行」には夜の心情をうたったものがとても多い。

「シンデレラ」と「気になるあの娘」を聞き比べると、VI-VII-IよりVI-V-Iの方が逡巡の表現に向いているのがわかるのではないかと思う。VI-VII-Iは前進であり、VI-V-Iは停滞である。興味深いのは、「気になるあの娘」は最後のサビの反復だけVI-VII-Iになることだ。「気になるあの娘」を巡る逡巡は、最後ほんの少しだけ意識が先へと向かう(だが、そうなる理由は明示されず、依然として最後まで「気になるあの娘の頭の中」は謎のままで終わる)。この細かなニュアンスの変化が、この作品に生き生きとした感じを与える。
 VI-V-I系統に留まらないことが、オリジナルである「丸の内サディスティック」と比べたときの「丸サ進行」作品の特徴と言えるだろう。だが、VI-VII-I系統とVI-V-I系統のどちらも、通り過ぎるか立ち止まるかという違いがあっても、何らかの対象には深く入っていかないようなところがある。「気になるあの娘の頭の中」は「わりと普通」であって、それ以上ではないのである。そこから先の展開は、なぜかタクシーを飛ばしてどこかへ行ってしまうので、描かれないのだ。「丸サ進行」をはじめとするループ系のコード進行には、歌詞の内容にあらわれる対象に対する、あるいは自分自身の抒情に対する防波堤の役割があるのかもしれない。(つづく)