愛のある批評

「丸サ進行」と反復・分割の生 (2)

人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
丸サ進行のウェルメイド性にもっとも切実に向き合う”ずっと真夜中でいいのに。”が表現する、徹底した逡巡。

 本書では、ある者がシステムに一つも加担しないなどというのはあり得ない、といった論旨が主張されているのだが、それにしては「ずとまよ」のシステム性については楽観視されているところがあるように思う。音楽制作は、言わば、システム内部にあるもの(コード進行でも家電でも)と、そのシステムを回す側(作曲)との相互干渉の結果なのではないか。音楽のつくりの次元で言えば、彼らほどシステマティックに、素材を使いこなす側であるような音楽家もそうそういないのではないかと筆者は思う。それはほとんど音色の次元でのことだ。「猫リセット」でファミコン音源の音色は、前奏で聞き映えのするアクセントとして用いられ、またサビでもボーカルを下支えするよう鳴らされている。ジャケットにあるアートワークの世界観を伝達する仕事も担わされていることだろう。

 あるシステムに属していたものが別のシステムにやってきて、それだけでそのまま新たな声を発するものなのだろうか。それぞれのシステムごとで、そのシステム内部で、新たにそのシステムのうちにある別の何かと、それでもやはり何か関係を構築しなくてはならないのではないだろうか。システムのことはさておいても、あるひとつの音楽作品が「その内部に存在するものだけで完結」する作用を、捨て去ることは難しいだろう。
 重要なのは作品内部の素材同士の結び付きの作り方である。多種多様な音色は、ほとんどラップミュージックに接近している譜割りの細かいボーカルの、ニュアンスを補うことに徹している感じがする。「あいつら全員同窓会」のストリングスのあしらいは、伸びやかなニュアンスが出るよう助けているように聞こえる。ただ、音色が助けるようにどんどん足し算されているように感じられ、聞いていて若干息苦しい。

「拒否」というのは筆者も感じている。だが筆者の場合この「拒否」を戸谷とは別のところに見るのであるし、あまり積極的には評価しない。「拒否」だけで表現は可能なのか。何かが「拒否」された結果としての表現というのは、さみしいものではないのか。彼らの音楽を聴くと、素材に対し、安全な操作者であることから降りるのを「拒否」しているように感じられてしまう。結果的に、「丸サ進行」の防波堤によって守られてしまっている。歌詞だけ取り出しても、他人に対するストレスが満ち満ちていてもなんとか衝突しないように、言葉が選ばれている感じがする。結果的に、音楽が安全圏となる。それはむしろ、戸谷が読み取った彼らの表現の要諦とは反対に、スマート社会の写し絵となっていることではないのか。
「あいつら全員同窓会」の後半、おそらく最も抒情的である部分の歌詞は次のようになっている。「どんな名言も響かない僕から/何も生まれはしないけど/目に見える世界が全てじゃないって/わかりたかっただけ」。ここの部分は「丸サ進行」ではないのだが、筆者には実に「丸サ進行」的であるように思える。徹底した逡巡である。自己との和解は遅延される。筆者が最も懸念するのはこの点である。(つづく)

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