愛のある批評

「丸サ進行」と反復・分割の生 (3)

人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
丸サ進行は、まだ絶対いける。

 しかし、そうはいってもなんてバッドセンスな曲だろうか。ゴテゴテしたアレンジや歌詞の内容以上に、サビに戻るところのブリッジ、つまり再び「丸サ進行」に戻る仕方が、「絶叫」の一言で片付けて主和音が鳴っているだけなのが、隙だらけでなんともはしたない。主和音の連打でさっさと次の部分に移行する仕方なら、ボカロ曲に共通してよく聞こえてくるが、こういうのを聞いていると、逆説的に、いかに「丸サ進行」曲が全体としては主和音に対する屈託を抱えていたことかとわかるものだ。「丸サ進行」が通過するのは主和音であったし、このとき逡巡とは主和音へ解決されない己の性質のことであった。主和音による関係付けを拒みたい音の数々が、表現の源だったのである。
 けれど、なんと言えばよいやら、言うことを聞くような曲ではない。そもそも「あたしヴァンパイア」という言明で始まるのが、まさにそこで使われている「丸サ進行」という素材にとって予想外の出来事なのだ。結論が出せないことが、容易に出せない結論を抱えたままでいることが、「丸サ進行」作品の表現力ではなかったか。これに比べ、自分が何者であるか迷いがない表現は強い(ポップミュージックの表現の特性が、最近ではTikTokなど、媒体に規定されるに過ぎないものだとしても)。
 たった一組のアーティストに出せる答えには限界がある。「ずとまよ」にとって別の答えを、「ずとまよ」自身が提示するわけにもいかない。「ヴァンパイア」での「丸サ進行」の使われ方を、「ずとまよ」が模倣するわけにはいかない。思えば「丸サ進行」は、その「ウェルメイド」性、代替可能性により、潜在的に、ある音楽にとっての別の生を生きる方法なのかもしれない。素材を使う人であれ聞く人であれ、別の生の可能性に行き当たっても、「答えは別にある」といって、対象と自分に対する防波堤に留まることで、別の生を別の生のままにしておけるのかもしれない。どれだけその音楽が反復と分割でつぎはぎだらけのようであったとしても、その音楽が複数の生を同時に生きることはできない。自分自身のたったひとつの生しか生きることしかできない。別の生を生きたことには決してならない。そういうふうにして、ひとつとして同じ「ウェルメイド」性はあり得ないのである。
 その音楽がうたいあげる自由を切り詰めてはならない。音楽の自由は、素材レベルで実行されるもののことであって歌詞の内容のことではない。自らを拘束しているものに対する答え方である。おそらくまた、音楽を聞く者にとってもそうだと思う。

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