愛のある批評

「推せ」ない「萌え」ない愛子さま(1)

人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
最終回は、西村が昨年の今頃、いつもと同じようにぼんやりとテレビで眺めていた、愛子内親王について。

 筆者が最初に見た有名人は皇族だった。
 あれは私が高校三年生のときだったので2008年のこと、全国高等学校総合文化祭というイベントがあり、当時私は部活動でヴィオラを弾いていて、あの日舞台はプラバホールという島根県は松江市にある、あの土地ではきちんとしたクラシックのアーティストをなんとか呼べるかも、というくらいには良いホールだったわけだが、とにかく私はその日オーケストラにのり、我ら鳥取島根両県の高校生で結成された合同オーケストラは、ブラームスの1番の第4楽章や、シュトラウスの「雷鳴と稲妻」をやらせてもらった。
 あの日私は、初めて天皇制を意識することとなった。全国総文祭には毎年、皇室の人々が公務で来るのである。
 秋篠宮家がやってくる。この片田舎の、高校生のアマチュアのイベントに。あれは本番が終わったあとのこと、誰が命じたのか知らないが我ら高校生合同オーケストラの面々は待機を命じられた。彼らが通るから見送れ、と。総文祭は夏の盛りの催しである。本番も無事終わって私はとても疲れていた。帰りたかった。見送るといっても、新年の一般参賀のように旗をもたせてもらうわけでもなく、ただだらだらと見物客をやらされなきゃいけないくらいのもので、かといってはっきりと断る根拠も理由もなく、暑いなか我々は待たされた。
 多少は、芸能人を見るくらいの気持ちで、野次馬根性があのときの私にないわけでもなかった。ブラウン管の中にいる人々がこんな片田舎に来るのは、そう多くなかった。例えば演歌歌手であるとか(クラシックのアーティストと比べれば、演歌歌手は、あまりよくないハコでもパフォーマンスできるのである)。ハコがないとはそういう事態である。ハコがなくともパフォーマンスできる人でないと、地方の人々の心に訴えることができない。
 そして私は、間近に、本当に少し歩けばその身体に触れられるくらい近いところで、二人の女の子と、お妃さまと、殿下を見た。
 正直な印象を言うと、二人の女の子の姿を思い出すことができない。ネット上をいくらか騒がせた皇族女子ブームが巻き起こったのはあれからもう少し後の2010年代半ばのことであったし、眞子さまの婚約者を巡る一連のトラブルはそこからさらに後のこと。紀子さまのこともあまり印象にない。
 ただ、殿下のことはよく覚えている。漠然と、きれいな人だなと思った。田舎では、殿下くらいの年齢の男性がきれいな人でいることは、基本的にはあり得ないことだった。
 他にも、何がそれほど彼女らと彼との印象の違いをもたらすものだろうか、と考える。私は、彼らの違いを、まなざしを受ける者とまなざしを発する者という違いとして記憶している。二人の女の子たちはまなざしを受けることに、まだぎこちなさがあった。殿下は徹頭徹尾まなざしを発する側だった。目線が高く、見渡すようにして、沿道にいる生徒たち一人ひとりを見返していた。まなざしは交錯して、支配力であった。まなざしを受けることと発することの両方が彼らの仕事なのだと思った。そしてこのことが、浩宮殿下の家族にとっては、なにか宿命的なほどに、病いの元だったのだろう、と、そんなことを今は思う。
 三島由紀夫『文化防衛論』の次のフレーズを、どうしても皇族の人々のこととしてパラフレーズしたくなる。「文化の再帰性とは、文化がただ「見られる」ものではなくて、「見る」者として見返してくる、という認識に他ならない」(三島由紀夫『文化防衛論』1969年、新潮社、36頁)。あの時筆者を見返してきたのは秋篠宮殿下だけだった。三人の女性たちは「ただ「見られる」もの」だった。
 思えば、何もかもとんだ近代ごっこである。

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