先の代替わりの前、上皇が人々にビデオメッセージとして発した「おことば」により、昭和から平成への代替わりの際に比べて天皇制に関する議論が発生しなかったことを、何人かの知識人が指摘している。メディアは当然この事柄に関する情報で溢れかえったのだったが、穏当かつ中立的な情報か(そもそも代替わりは皇室典範によりどのように規定されているのか、など)あるいは皇族の人々の人物評のようなものか、ともかく天皇に対してではなくこの天皇制という制度そのものに向き合うための情報があったかと言えばそれはたいへん心もとないものであった。「風流夢譚」事件のことを思い出しても、これらの情報にはリスクばかり伴うので、人々は、中立的な情報しか出回らないものだと初めから安心しきって、次の元号を予想したり、元号が変わることで生じる書類修正の必要性を見積もったりして、単なるイベントとして過ごしたことだろう。
筆者とて天皇や天皇制について考えていないわけではない。天皇制以前のところに浸透したものをきっかけにすることでしか(『皇室アルバム』や週刊誌の記事であるとか)、もはや天皇制を具体的に考えることができない。現在の批評家の天皇論は、文芸評論の技芸の一部門をなすものだろうけれども幾分人工的でなかなか実感にそぐわない。他にも国体の護持や万世一系といった専門用語が飛び交う文章も未だに多く存在するが、ついていけない。もっと世俗的なものとなると、だいたいの批判の根拠に「それでは国民の理解が得られない」「国民の心が離れていく」という紋切り型の表現が登場するタイプの皇室論もあるが、これも読むのが難しい(筆者個人として、天皇や皇室の人々に理解を示したことも心を寄せたこともないからである)。
考えていないということは、国民としての主権意識の無さの表れだ、というのはわかるが、あれについて考えたところでどうなるのか、という無力感は拭えない。理屈で詰めたところでいつまでたっても絶ち切れないものはたくさんある。皇室の制度の存在意義についてなら、彼らのやっている皇室外交などの公務によって説明がつくだろうけれども、それだけでは制度を存続させる理由としてはどうも弱い気がする。彼らは生まれによって差別される人々である。憲法の基本的人権の尊重の条文に反する存在だ。日本国憲法成立以前から続いているのだから、神武天皇以来2000年以上やっているんだからと言われても、「開かれた皇室」を目指すと言われても、良い悪い以前に、「国民の心」などという好き嫌いの感情以前に、成文化された条項にそぐわないのであってここをクリアできないのにどうしてそれほど発展的な議論が存在するのかが筆者にはわからない。問題としてはそれ以上でもそれ以下でもないから議論にならない。今ある議論のほとんどは廃止に向けたものではなく、いかにして存続させるか、という議論であろう。ちなみに言うと、中途半端に批判すると天皇への人々の関心を惹起させるだけで、結局廃止のための議論にはならないのだと思う。
「推せ」ない「萌え」ない愛子さま(2)
人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
愛子内親王についての報道は、いつも彼女自身を語っていない。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
愛子内親王についての報道は、いつも彼女自身を語っていない。