4.天皇的なもの、代替可能性と代替不可能性
制度に対する議論の反復により政治的な関心が薄れて、加えて先の小室夫妻のバッシングとで、もはや天皇的なものは実体としての彼らからはほとんど逃げ去りつつあるのかもしれない。天皇的なものについてならいくらでも問題となる。今まで本連載で行ってきたことは、図らずも、天皇的なものを扱うことだったといってもいいだろう。これは日本の近代文学における菊タブーについて考えることからは遠く離れている。天皇にまつわる諸々をサブカルチャーの一部門として扱うことでもなく、サブカルチャーの中に見られる天皇にまつわる表象について考察することでもない。筆者が図らずもやってきたのは、サブカルチャーのただなかで天皇的なものに逢着することである。この天皇的なものとは、代替可能性と代替不可能性両方を介した二者関係から生まれるもの、と言ってもよいだろう。
《ケイコ先生の優雅な生活》は、誰とでも寝る女が男と日常から束の間離脱する話であった。代替可能性と代替不可能性とは、それほど簡単に引き離して把握できるものでもない。本当に誰でもいいのであれば、人は、たった一人の人間と寝てそれっきりなのではないか。誰でもよくないから他の人間の方へ行くのではないか。すると、誰とでも寝る人間は、いつまでも誰でもよくないと思い続ける人間ということになるのではないか。誰からも好かれるかけがえのないたった一人の私であるためには、誰とでも寝続けなくてはならない。だから、誰とでも寝る女であるケイコ先生は奇妙に、代替不可能性の方にいる(彼女はこのことを自覚していない。彼女は相手に求められたら寝るだけだ)。この辺りの道理は普通は通じない(彼女がどうして誰とでも寝るのか映画の中では誰も理解していない)。代替可能性と代替不可能性を巡る謎ゆえに彼女は孤立する。ただ、孤立した人間はそれ自体外部への予感である。彼女が誰とでも寝るという事実に傷つきつつそれでも彼女と寝ることを決めた彼は、ケイコ先生という外部への予感に乗ったのである。そして彼女の方もまた、彼が外部への予感に乗ってくれることがなければ、外部へは行けなかったのであった。
代替可能性と代替不可能性については本連載では「「丸サ進行」と反復・分割の生」回で重点的に扱った。バンド・相対性理論の曲には外部への予感がある。「シンデレラ」は「2ストロークのエンジン」の駆動によりどこかへ向かう道中であるし、「気になるあの娘」のサビは、日常から超越する。急にタクシーを飛ばすことになる、そのサビの叙情性はサビ以外の部分に根拠を持っていない。ところで、相対性理論・やくしまるえつこの書く歌詞に「誰でもいいけど私だけ」というものがある。思えば、多くの丸サ進行楽曲群には、代替可能性を真摯に引き受けるばかりで、代替可能性と代替不可能性との分かちがたさや屈折や、代替可能性から代替不可能性への飛躍といったものが、足りなかったのかもしれない。それが相対性理論から丸サ進行楽曲群へ受け継がれなかったものの内実かもしれない。
「推せ」ない「萌え」ない愛子さま(3)
人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
サブカルチャーのただなかで天皇的なものに逢着する、その軌跡を振り返り、全5回の連載が終わる。
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