母は死ねない

特集対談:「かくあるべき」家族の形に抵抗する(前編)
河合香織『母は死ねない』(筑摩書房)×武田砂鉄『父ではありませんが』(集英社)

様々な境遇の母親たちの声を聴き取ったノンフィクション『母は死ねない』を刊行した河合香織さんと、“ではない”立場から社会を考える意味を問う『父ではありませんが』を刊行した武田砂鉄さん。タイトルだけならば視点の異なる二冊のようにもみえますが、「家族とはこうあるべき」「人間はこう生きるべき」といった他者からの圧力、視線、呪いのような言葉たちから自由になろうという信念によって書き手二人の問題意識は通底します。人生における「べき論」をほぐす真摯な対談、前編です。


誰でもたいていは第三者

河合
:「当事者であるか/ないか」というのは『父ではありませんが』のテーマにも深くかかわっていますが、私自身、デビュー作が「障害者の性」だったんですよね。「障害者ではない、当事者ではないお前に何がわかるんだ」という意見をもらったこともありました。だから「第三者」であることの意味はよくわかる。その一方で、出産を経験するまでは本を書く事を「産みの苦しみ」と表現したこともあったけれど、自分がいざ出産で生死の境を彷徨ったときには、何もわかってなかったとも思ったわけです。出産の経験は人によって全く違うものですが、私自身は命の危険もあったため、執筆とは比べようもない苦しみでした。今までいろいろな人の話を聞いてきて、相手の思いを理解したつもりになっていたけども、本当は何もわかっていなかったのかもしれないと感じました。でも、出産したから「わかった」のではなくて、誰にでも「どうしてもわからない領域」というのがあるんじゃないかな、ということに気がついたんですよね。一周まわって「自分にはよくわからない」を受け入れたというか。

武田:どんな人でも立場は違っていて、相手を完全に理解することはできない。どんな相手であったとしても、やってきたことや培ってきた経験値を完全に把握することはできないけれど……という前提に立つことで、当事者ではない自分であっても、当事者に対して想像を繰り返すことはできるんじゃないでしょうか。相手のことを想像しようとなると、相手を完全に理解しよう、ってなりがちですけど、そうじゃなくて……例えば自分は身体的な経験として、これからも「子供を産む」ことはないだろうし、その産みの苦しみを体感することはないでしょう。けれど、話を聞き、テキストを読むなかで「産みの苦しみ」とはこういうものなのではないか、と想像する。その想像は実際には「合ってない」んだと思います。だけど、そうすることによって近づいていく、自分の頭の中で想像しようとすることが大事なんじゃないかな、と。「いや、あなたにはわからない」っていう風に言われてしまうと、自分なりに育んできたかたまりみたいなもの……それを育てることすらやめてくれと言われてしまったら、対話が成立しなくなってしまう。この辺りがとても難しいですね。

河合:武田さんの本に書かれていたとおり、どんな人だってたいていのことは第三者です。「当事者じゃないと語れない」とか「理解できない」となったら、どんなことも進まないわけですよね。分断しか起こらない。ただ、すべてのトピックについて「当事者じゃなきゃわからない」と強く言われるわけでもないのは不思議です。例えば殺人事件のことを書くとき、「殺してみなきゃわからないだろう」と責められることは多くないと思いますし、政治のことを書く上でも「政治家じゃなければ政治のことはわからないだろう」って言い方はあまりされませんよね。「当事者でなければわからない」「語れない」と言われやすい分野があるのではないかと思います。

武田:そうですね。とりわけ出産や子育てというのは、経験の有無が前提になりやすい。河合さんが苦しめられたように「母親はこうあるべき」「親はこうあるべき」「子育てはこうあるべき」っていう価値観が非常に強固なものとして存在していて、「これは誰が決めたものなんだろう?」と思って、それを溶かしてみようとしても正体がなかなか見えてこない。その「固いもの」は、「経験してきた人たちによる経験の集積」によって出来ているようにもみえる、けれども本当にそうなのか、一体何なんだ……という。難しいですよね。溶かしていっても見えてこないんだけれど、苦しめられている人が多い。

河合:そういった「当事者にしかわからない」と言われるような分野は、「こうあるべき」という規範を押し付けられることも多い気がします。弱い立場の人のこととなるとそうなりやすいのでしょうか……。武田さんの今のお話だと、その「固いもの」をつくったのは当事者、という風に考えていらっしゃいますか?

武田:いや、当事者というよりも、その当事者の声を活用した力によって、でしょうか。たとえば政治の力。「子育てとはこうあるべき」とか「家族とはこうあるべきだ」と固めようとする力というのは、今の政治状況をみていると顕著です。かつて自民党が憲法改正草案を作った時に「家族は互いに助け合わなければならない」っていう文言を入れたことなどが象徴的だと思います。それが実際に適用されるかどうかという話とはまた別に、彼らは「何があっても家族は互いに助け合うべき」と考えているんだな、とわかる。そういう集団に属する人たちが子育て政策を考えていれば、どうしてもズレは生じますよね。

河合:母であることや、家族や子育てが政治に利用されやすいというのは確かにそうですよね。お母さんたちは社会の価値観を刷り込まれて利用されているかもしれないのに、「母性はもともと備わっているもの」とか、「女性だから」「母だから」といった言葉に縛られるのはもったいないな、と感じました。

 

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