母は死ねない

特集対談:「かくあるべき」家族の形に抵抗する(前編)
河合香織『母は死ねない』(筑摩書房)×武田砂鉄『父ではありませんが』(集英社)

様々な境遇の母親たちの声を聴き取ったノンフィクション『母は死ねない』を刊行した河合香織さんと、“ではない”立場から社会を考える意味を問う『父ではありませんが』を刊行した武田砂鉄さん。タイトルだけならば視点の異なる二冊のようにもみえますが、「家族とはこうあるべき」「人間はこう生きるべき」といった他者からの圧力、視線、呪いのような言葉たちから自由になろうという信念によって書き手二人の問題意識は通底します。人生における「べき論」をほぐす真摯な対談、前編です。


ひとつとして同じではない答え

武田
:今回の本で、河合さんは様々な立場の方に取材をされています。母親であるということの信念、母という存在の重みというのか……取材の前と後ではどんな変化がありましたか?

河合:少しずつではありますが、「かくあるべき」という規範から解放されていくような思いがしました。取材をする前は「大変な状況のお母さんに会いに行くのだ」と気負う瞬間もありました。例えば、LGBTQ+の方で同性パートナーと子供を育てている家族に話を聞きました。取材前は、子供に対して何か特別な気負いがあったりするんじゃないかとか、ほかの家と違う点があることをなんとなく言い出しづらいとか、そういった気持ちを抱えているんじゃないかと思っていたんです。自分たちにとって「親である」ことは信念だけど、子供から見れば違う景色もあるかもしれないと。でも実際にお話を伺ってみると、私の考えは見当違いでした。そんなこと全く思わずに、互いのありのままを受け止めていました。取材を通して私自分の見ているものの狭さを自覚して、「かくあるべき」という荷を少しずつおろしていきました。最初は「母は死ねない」と思っていたけれど、「死ねない」と過剰に気負いすぎるのは、自分にとっても子供にとっても重荷だな、と。

武田:河合さんが母親を訪ねたり、「母とはなんだ」と自分に問いかけたりしていく中で、これまでとは違う目線が入ってくる。「子供は親に本当のことを言えないものだよ」という河合さん自身のお子さんの言葉も出てきましたが、河合さんが焦点を定めようとしても、その焦点が最初とはまた別の方向に向いていくところが興味深い本でした。

河合:それは取材をすることの、人の話を聞くということの醍醐味ですよね。最初に考えていたこととは全く違うことがあるという発見。武田さんのこの本にも私が思ってもいなかったことがたくさん書かれていて、視野が広がった思いがしました。自分では見えていなかった部分にも気がつくことができました。「わが子が成人するまでは死ねない」っていうような気概は、一見すると当然の考えではあるけれど、そこで硬直するのはどうなのか、とか。

武田:そういった言葉そのものよりも、そこに周りが無条件に賛同すること、疑わないことに対しての怖さがあるんだと思います。もちろん、「死ねない」と考えている人に対して「なんでそんなこと言うの?」とは言わない。無色の水に色のついた雫を一滴たらしたら、一斉にその色だけにバッと染まってしまう感じ……メディアについての疑問を書くことが多いのですが、ひとつの意見が全てを一色に染めるようなことに対してはやはり違和感があります。

河合:自分の子供に事件や事故などが降りかかってきた時、「かわってあげたい」って親が思うことはもちろんあると思います。でも、それこそが絶対的に善となってしまうと、「そう思わなければいけないんだ」という圧になってくることもあります。