私が久石譲さんと初めてお会いしたのは、『千と千尋の神隠し』の挿入歌「ふたたび」の作詞を担当したときだった。
ある日れんが屋で映画を見た日、帰りに父に「ここに電話して」とCDと電話番号を渡された。なんのことだかさっぱりわからず、「何? 誰? なんで電話するの?」と質問ばかり浮かんでくる私(当たり前だが)に父は「なんか仕事を頼みたいみたい。パパはわからないからとにかく電話してみて」と最小限の情報しかくれなかった。
父はいつもそうなのだ。説明というものをしてくれない。これ以上聞いても無駄だと思った私は、とにかく電話するしかないと思った。仕事と言われても検討もつかなかった。雑用のアルバイトなんかが足りなくて、頼まれるのかもと思った。それにしても急に他人の私にそんなことを頼むだろうか。考えても謎が謎を呼ぶばかり。この謎を解くには電話してみるしかないのだ。そして私は、女性かも男性かも分からないその人に電話をしてみることにしたのだ。
人見知りの私は、電話一本するのも一苦労だ。誰ともわからない人にどんな話し方をしたらいいのか。相手は私を知っているのだろうか。父とはどんな関係なのだろうか。考えてもしょうがないことを一瞬のうちに頭に張り巡らせながら電話をかけた。
出た方は女性だった。「鈴木敏夫の娘の麻実子です」と自己紹介をすると、相手はすぐに「麻実子さん! ご連絡ありがとうございます。○○と申します。」と自己紹介したあとに矢継ぎ早に「早速ですが打ち合わせに来ていただけますか?」と続けた。私はその一瞬ですべてを察した。父とはもう話が決まっているのだ。「パパわからない」はやっぱり嘘だった!
しかしこんな丸腰の状態で打ち合わせなどというものに行くわけにはいかない。さすがに何の打ち合わせか聞かないと無理だ。そもそも打ち合わせなんてものは人生で一度もしたことがない。どうやって挑めばいいものか想像もつかなかったのだ。
私は恐る恐る「すいません……実は父から何も聞いてないんですが、今回の事はどんなお話なんでしょう」と聞いてみた。相手の女性は「あ、そうなんですね。大変失礼しました」と焦り気味。彼女は何も悪くないので申し訳ない気持ちでいっぱいになった。はっきりとは覚えていないが「実は今度『千と千尋の神隠し』の挿入歌に歌詞をつけることになり、久石がぜひ麻実子さんに作詞をということだったので鈴木さんにお願いした次第です」というようなことを言われた。
カントリーロードのときに引き続き、頭の中ははてなでいっぱいだ。まずできあがっている映画の挿入歌に歌詞をつけるってどういうことだ。そして久石さんとは? そして一番は、なぜ私に作詞を頼もうと思ってくれたのか。私の職業ってなんだっけ? 人違いなんじゃないかな? と疑問だらけだった。
「私、作詞ってほとんどやったことないんですけど、本当に私でしょうか?」と聞き返すのが精一杯だった。女性は「もちろんです。麻実子さんです。とりあえず一度お話を聞きに来ませんか?」と言ってメールアドレスを教えてくれた。
電話を切ると私はすぐに久石さんのことを調べた。ジブリの音楽を作っている作曲家の先生。どうやらとてもすごいお方だ。顔は見たことがなかったので多分面識はない。こんな私がそんなすごい方の曲に作詞なんてしていいんだろうか? もっと適任な方がいるに違いない。これは丁重にお断りするべきだ。そう思った。
しかし、久石さんはなぜ私にと言ってくださったんだろう。そして私はこれを断ってあとから後悔しないだろうか? 面白い経験になるかもしれないというワクワクと、それに伴う重圧から逃げたいという思いが私の中でせめぎ合った。なにより一番嫌だったのは「打ち合わせ」という未知のものだ。そんなきちんとした場所に行ってきちんとした人たちと話し合うなんて考えただけで吐きそうだ。それから逃げたい一心で断りたいと思った。
でも私は、やりたくないと思うことをやってみると必ず大きな快楽を得れるということを知っている。やりたくないと思えば思うほど、やったほうがいいのだ。初めてのことでやりたくないと思うこと。それは私にとってやってみるべきというセンサーが働いているようなものなのだ。
数分悩んだのちに考えるのが面倒くさくなり、「とりあえず何も考えずに行ってみよう」と決意した。行って嫌だったら途中でやめればいいだけだ。そう思うとすぐに、先ほど聞いたメールアドレスに「とりあえず話を聞いてから考えたいので打ち合わせに伺います」とメールを書いた。
打ち合わせ当日、女性の方に案内され部屋に入ると久石譲さんがいた。久石さんは「初めまして。いつもお父さんにお世話になってます。こないだもね……」と気さくに話しかけてくれた。久石さんを初めて見た印象は、想像していたものとはまったく違っていた。もっと貫禄があってオーラ全開の方で鋭い目をしているイメージだったんだけれど、実際はニコニコして眉毛が下がり、思っていたより細身で、軽々と動くおじさまだった。柔らかい声で丁寧に話す話し方に私は一瞬で好感を持った。
そして久石さんは「今回ね、千と千尋の神隠しの挿入歌のふたたびっていう曲に歌詞をつけることになってね。誰に作詞お願いしようかなって思ったときに、あ、鈴木さんの娘さん作詞やってるじゃんって思い出して頼んでみようと思ったんだ」と話してくれた。思ったより軽い感じで決まったんだと思い、驚くと同時に少し心が軽くなった。こんな感じならできないと思ったときに断りやすいかもと思った。この方なら私が断っても「そうだよね。じゃあ今回は違う人に頼むよ」と軽く受け入れてくれそうだ。まずは話だけ聞いてみようと思った。
しかし話を聞いてみると言っても何を聞いたらいいのかよくわからなかった。テーブルには「ふたたび」と書いた楽譜が置いてあったので、それを手に取ってなんとなく眺めていた。まずはでも自分の現状を先にはっきり伝えておいたほうがいいような気がして、私は恐る恐る「私素人なので何もわからないんですが、それでも作詞ってできるものなのでしょうか?」と久石さんに聞いてみた。
が、聞いた瞬間に深い後悔に包まれた。今までニコニコしていた久石さんの表情が一瞬変わり、空気が変わったのだ。「何言っているの君は? 素人も何もないでしょ?」と言っているような、驚きと呆れが混じったような微妙な表情をしていた。ほんの一瞬であったが、場違いなことを言うのは許さないという気迫を感じた。
この部屋に入った瞬間、私はプロの作詞家なのだ。そうでなければいけない。そうでないと、巨匠である久石さんの忙しい時間を割いてもらってこんなふうに打ち合わせすることなんてできないのだ。一瞬でそれを悟った私は、自分には断るという選択肢などないことを知った。話を聞いて考えてみるなんておこがましい。もうこのプロジェクトは動き出しているのだ。
その後久石さんは再び笑顔に戻り、「大丈夫。相談しながらやりましょう。きっと素晴らしい歌詞ができますよ」というようなことを言い、「曲はもう聞きました? ちなみに歌うのは平原綾香さん。ご存じです?」と話を続けた。平原綾香? どこかで聞いたことがある。「Jupiter」の人だ。すごく歌がうまい人だ。いやその前にプロの歌手の人だ。平原綾香が私の書いた歌を歌う? どういうこと?
頭の中が真っ白になっていた私は、口先だけで受け答えをしていた。しかしなぜだろう。不思議とそんなときのほうが、言葉がスラスラと出てくる。平原綾香が歌うことにもなんの動揺もせず、ドラマや映画で聞いたような言葉をつなぎ合わせて、「どんなコンセプトで書けばいいですか? 何か入れたほうがいい言葉はありますか?」などといっぱしの作詞家のような言葉が口をついて出るのだ。実際の私は幽体離脱してそんな私を部屋の天井の隅から見ている感覚だった。私は緊張が過ぎるといつも幽体離脱してしまうのだ。
久石さんは、すべて私に任せると言った。とにかく思うように書いてみてと言い、どのくらい時間がかかるかと聞いてきた。さっぱり見当がつかない。作詞って普通どれくらいの期間でするものなんだろう。「普通はどのくらいかかるものなんですか?」と聞き返したいところだが先ほど失敗したので憚られる。カントリーロードはすぐに書けたが、あんなふうにすぐ書けるものなんだろうか? 私が答えを出せずに黙っていると久石さんが「まあじゃあとりあえず一週間くらいかな?」と促してくれたので「そのくらいを目指します」と答えた。
久石さんの事務所からの帰路、タクシーの中で私は「大変なことになった。もう逃げられない。どうしよう」と焦燥感にかられていた。なんで父はもっとちゃんと説明してくれなかったんだろうなんて恨みの気持ちも浮かんだが、あの父にそんな普通のことを求めても仕方ない。説明してくれていたとしても、私はこの打ち合わせに来ていたかもしれない。
とにかくもう動き出してしまった。先のことは考えず、今やれることをやっていくしかない。恐るべきことに立ち向かわなければいけないとき私は、自分の足元だけを見るようにしている。高い崖から飛び出た板の上を歩くとき、先を見たら足がすくんで動けなくなってしまう。「忘れる」のが特技な私は、先がどうなっているかをひとまず忘れて、足元だけを見て歩くのだ。家に着くころには「とりあえず忘れよう」といつもの口癖をつぶやき、まず帰ったら何をしようかを考えた。