「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代 

第2回 「教授」以前の彼(その1)

比類なき輝きを放つ作品群を遺すとともに、「脱原発」など社会運動にも積極的に取り組んだ無二の音楽家、坂本龍一。その多面的な軌跡を「時代精神」とともに描き出す佐々木敦さんの好評連載、第2回の公開です!

 坂本龍一は、1952年1月17日、東京都中野区に生まれた。父親は河出書房/新社の文芸編集者だった坂本一亀、母親は帽子デザイナーの坂本敬子。龍一はひとりっ子である。

 両親と幼少時の思い出を坂本龍一は何度か語っている(『音楽は自由にする』2009年、『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』2023年、吉村栄一が坂本に長期間にわたりインタビュー取材を行って著した『坂本龍一 音楽の歴史』2023年、など)。

1 近くて遠い存在だった父親

 三島由紀夫の『仮面の告白』(1949年)を始めとして、埴谷雄高、高橋和巳、野間宏、椎名麟三、井上光晴、中村真一郎、小田実、丸谷才一、いいだ・もも、辻邦生など戦後文学の重要作家たちを世に送り出し/担当し、現在も続く文芸雑誌『文藝』の編集長も務めた父・一亀の生涯については、河出書房新社で彼の部下だった田邊園子の『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』(2003年)に詳しい。同書の「はじめに」で田邊は、一亀について「ファナティックであり、ロマンティストであり、そしてきわめてシャイな人」「私心のない純朴な人柄であり、野放図であったが、繊細であり、几帳面であり、潔癖」「言動は合理性にはほど遠く、矛盾があり、無駄が多いように見えたが、本質を見抜く直感の鋭く働く人」「古武士のような人」などと評している。九州男児で、第二次世界大戦で満州への従軍経験があり、戦争に行くまでは皇国少年だったが、敗戦後は先の作家陣の顔ぶれからもわかるようにリベラルな意識を強く持ちながらも、部下や家族に対しては軍隊式の態度が抜けなかった一亀は、息子の龍一にとっては「仕事が忙しくて、1ヶ月に1度顔を合わせるかどうか、という感じでした。そして家にいればいたでいつも怒鳴っている」「とにかく怖い」存在だった(『音楽は自由にする』)。同様のことを坂本龍一はたびたび述べているので、よほど怖かったのだろう。それは田邊が描き出す一亀の人物像とも合致している。文学を心底愛する理想主義者の熱血漢だが、自らの理想と情熱の共有を周囲に強いるいささか困ったひと、といったところか。田邊の回想には、今ならパワー・ハラスメントで問題になりかねないエピソードも含まれている。

 「とにかく怖い」父親は、滅多に自宅にいないせいもあって、息子の龍一には近くて遠い存在だったようだ。特に子供の頃は違和感や距離感を抱いて当然だったろう。キャラクター的にも異なる点が多いようだが、もちろん親子なのだから似ているところもある。田邊は坂本家をたびたび訪ねており、『坂本一亀とその時代』には坂本龍一への言及も何度かあるのだが、YMOによって「それまでのぼくのライフスタイルと全く変わっちゃったんです。ぼくはわりとアノニマス(匿名性)でいることが好きというか、無名性が好きなんですね。人の前へ出るのがあまり得意じゃない性格だったんです」という発言を引いた上で、著者の田邊はこう述べている。

 坂本龍一は演奏会やオリンピックの音楽指揮や映画出演やテレビ・コマーシャルなど大勢の人々に見られる仕事に身を投じているけれども、本来は内面的でシャイな、はにかみやさんなのだろう。編集者という、表面には出ない裏方の仕事を選んだ父親の一亀も、龍一が好むアノニマス(anonymous=匿名性)の人である。(中略)                                      

 文壇ジャーナリズムのなかを器用に泳ぎながら仕事を進める型の編集者は、坂本一亀からはほど遠い。(『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』)

 父子二人に直接接した人物によるこの指摘はとても興味深い。もちろん龍一の発言は額面通りに受け取るわけにいかない部分もある。後で見ていくように、彼には少年期から「はにかみやさん」であると同時に「目立ちたがりやさん」という面も明らかにあったからだ。だが、ここでいわれるアノニマス=匿名性への憧憬は、坂本龍一という人間の基底に一貫して流れ続けていたとも思われる。彼がのちに自らの「有名性」を、良きことのために惜しげもなく利用して/させてみせるようになったのは、「無名性」への欲望と繋がっている。そして、少なくともその一部は父親から受け継いだものだったのかもしれない。坂本龍一は、編集者としての坂本一亀と同じく、音楽シーンのなかを器用に泳ぎながら仕事を進める型のミュージシャンではーーたとえそう見えるときがあったとしてもーーなかったのだ。

 『坂本一亀とその時代』は、かつての上司への敬愛に満ちていながらも、時にその筆致は辛辣である。「坂本一亀の足跡を辿ってみると、先鞭を付けた仕事の連続で、確かに「偉い人」に違いないとは思うのだが、その横暴ぶりは「偉い人」とはとても言い難く、坂本一亀は周囲の人々にとっては、しばしば「困る人」でもあったのである」。田邊は、ある男性編集者が坂本一亀に「君タチハ僕ノ手足トシテ、僕ノ言ウ通りニヤッテモラウ!」と「宣告」されて驚いて入社を辞退してしまったというエピソードを記している。「一人前に仕事が出来る編集者は、坂本一亀とともに長く仕事を進めることは出来ない」とまで田邊は書いている(一人前に仕事が出来ないと一亀の部下は務まらない、ではないことに注意)。

 このような一亀の「軍隊式」の「横暴ぶり」は坂本家でも同じだったようだ。仕事ではない分、余計に厄介だったとも言えるだろう。

 龍一少年が奥でピアノを弾いていると、坂本一亀は「リューイチ! ヤメロ! ヤカマシイ!」と怒鳴るので、龍一少年は何も言わずピアノを弾くのを止めていた。会社では坂本一亀が休むと安堵する人がいても、家族にとっては坂本一亀が会社にいるほうが気楽なのではないか、と私は想像したりした。

 龍一少年は、ときには父親が装丁の印刷物について私に指示しているそばで見ていることもあったけれど、殆どいつも伏目がちに黙っていた。夫人は活発に夫君に対応していたけれども龍一少年が父親と元気に会話を交わしている場面には一度も遭遇したことがない。おそらく龍一少年は幼いころから賢くて、無駄なエネルギーを費やさない智恵をそなえていたのかも知れない。そして一人っ子によくあるように、他者の介入し得ない独自の世界を、自分のなかで育んでいったのだろう。(同前)

 坂本龍一は父親の死に際に立ち会えていない。坂本一亀は2002年9月28日に亡くなったが、そのとき龍一はポーラ&ジャキス・モレレンバウム夫妻とのボサノヴァ・ツアーのためにヨーロッパにいた。腎臓病で長年人工透析を受けていた父の容態が悪化したという連絡が母親から入り、コンサートに代理を立てて帰国することを一度は考えながらも、悩みに悩んだ末に帰国しないことにした。「きっと仕事人間だった父なら理解してくれるだろうと思って」(『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』)。訃報を受けたのはそれから一週間後、ベルギーからフランスへ移動するツアー用の寝台バスの車中、朝の四時頃だったという。

 『坂本一亀とその時代』に描かれる一亀と龍一の親子関係は、けっして幸福なものとは言えない。「いつも伏目がちに黙っていた」「龍一少年」の姿は、本人の回想によっても裏付けられている。「伝説の編集者」と呼ばれることになる坂本一亀も、息子の龍一にとっては「とにかく怖い」父親でしかなかった(『音楽は自由にする』には、高校に入ってまもなく先輩の影響もあって埴谷雄高を読むようになり、『虚空』(1960年)や評論集は面白かったが『死霊』(1948~1995年)は「ぜんぜんわからなかった。登場人物の名前の読み方さえよくわからない。父に訊けばいいんでしょうが、なにしろ父とは目もあわせられないような関係でしたから」とある)。

 ところが『坂本一亀とその時代』を最後まで読み進み、著者の田邊園子によるあとがきを目にした読者は、いささか虚を突かれることになる。そこには「本書の成立は、まだ坂本一亀の存命中に、子息龍一から、父が生きているうちに父のことを書いて本にしてほしい、との依頼があったことが発端である」と書かれてあるからだ。そう、同書の誕生は、そもそも坂本龍一が希望したものだったのである。一亀の死については、先にも引いたように『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』でも触れられているし、『音楽は自由にする』にはより長い言及があるのだが、そのどちらにも、一亀の部下だった人物に父親の伝記の執筆を依頼したという話は書かれていない。私にはこのことが、とても坂本さんらしく感じられる。父親が亡くなった後に、その生涯を振り返った本が書かれるのではなく、彼はそれをまず一亀に読ませたかったのだ。実際、坂本一亀は『坂本一亀とその時代』の原稿を「丁寧に読み、私の誤解や間違いを訂正し、さらに大まかな指示と細かい要望を示した」と田邊は記している。「彼が多くの原稿を読んできた歴史のなかで、これは最後のものであったろう。昔の部下から「困る人」と書かれたせいか、現われた時、彼は苦笑を押しころしたような表情だった」。没後の出版になったのは坂本一亀の希望によるものだったという。ひょっとしたら坂本龍一は父親が亡くなる前に世に出したかったのかもしれないが、一亀は最後まで「アノニマス」を貫いた。

 父が亡くなって自分が変わったとか、そういうことはとくに感じてはいません。でも、それまで自分の後ろにあった大きなものがなくなったような、そんな感じはあるように思います。

 ぼくが父に似ているような気がするところは、いろいろあります。あまのじゃくだったり、あまり表に出たがらなかったり。それから、2人とも人やものごとに惚れ込みやすく、すぐ夢中になるんです。(『音楽は自由にする』)

2 母親とは「なんでも話せる関係」

 坂本一亀の人物像からつい亭主関白を想像してしまうが、田邊園子が「夫人は活発に夫君に対応していた」と書いていたように、坂本敬子はおとなしいタイプの女性ではなかった。「帽子のデザイナーをしていた時期もあり、演劇、芸能界と繋がりがあった。社交的な性格の人であったと伝えられている」(『坂本龍一 音楽の歴史』)。「ファッショナブルで、イタリア映画が大好きでした」(『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』)。坂本龍一のいちばん最初の映画は、敬子の膝の上で観たフェデリコ・フェリーニ監督の『道』(1954年)だったという。「そこで聴いた映画のニーノ・ロータによるテーマ曲が生まれて初めて記憶に強く残った音楽なのかもしれない」(『音楽の歴史』)。また、敬子にはフェミニズム的な志向もあった。

 ちなみに、親交のあった金子きみさんの『草の分際』によると、若い頃の母は幼いぼくの手を引き、女性中心の平和活動団体「草の分際」の反戦デモに参加してもいたようです。このときのことは一切憶えていないけれど、ぼくは物心がつく前から、思想の上でも母に大きな影響を受けていたということでしょうか。(『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』)

 坂本龍一は母親の死に際にも立ち会えていない。だが死に顔を見ることはできた。坂本敬子は2010年1月9日に亡くなった。一亀の死後しばらくは独居していたが、以前から甲状腺がんなど複数の持病があり、龍一の説得によってまず一般の病院に入り、後に「老人専門の病院」に移った。2009年の末に日本国内でピアノ・コンサートが何度かあり、その合間を縫って坂本龍一は病床の母を足繁く訪ねた。年明けにはニューヨークに戻る予定だったが、未来を予知できると評判の知人の「予言」にしたがって離日を延期したところ、臨終の瞬間には立ち会えなかったが、一亀のときとは違い「すぐに病院に駆けつけることができた。そして、ぼくが喪主としてお通夜や葬儀・告別式を取り仕切」ることができた。母親とは「子供の頃からなんでも話せる関係でした」と坂本龍一は述べている。

 だけど、ぼくの中には両親のどちらの要素もあるんですよね。戦争経験のある寡黙な九州男児の父親と、東京生まれの明るいヒマワリのような母親と、そんな相反するふたつの性格に、時に自我が引き裂かれそうになることもあります。(同前)

3 生まれて初めての作曲

 坂本龍一が音楽の道に進むことになったきっかけも、敬子の導きによるものだった。だが母が息子を音楽家にしようとしたのではない。敬子は龍一を「生活即教育」を理念とする学校法人「自由学園」系の幼稚園「東京友の会世田谷幼児生活団」に通わせたが、そこでは「ピアノの時間」があり、「毎週のように、みんな順番に、ピアノを弾かなくてはいけない。ぼくが初めてピアノに触れたのはそのときです。3歳か4歳でした。楽しいという感じはぜんぜんしなかったし、どんな曲を弾いたのかも憶えていない」(『音楽は自由にする』)。それから敬子の弟たち、つまり坂本龍一の叔父たちが、かなりの音楽好きで、レコードをたくさん集めており、叔父のひとりはピアノもうまかった。坂本一家は一時期、白金の祖父(東亜国内航空(現・日本エアシステム)の会長を務めた下村彌一)の家に居候していたが、引っ越した後も幼い龍一は毎週のように通って叔父たちの部屋に入りびたり、レコードを聴き漁っていたという。

 もちろん、この年齢で将来の職業を定めたわけではない。だが龍一が通っていた幼稚園は先進的な教育を行っており、ピアノだけでなく、なんと作曲もさせられた。夏休みに園児が持ち回りでウサギの世話をしたときの気持ちを歌にしなさい、というのである。龍一は歌詞とメロディを自作して、母親に手伝ってもらって楽譜にし、宿題を提出した。「歌って録音したものがソノシートになっていたはずなんですが、今では見あたりません。初めての作曲。4、5歳のときです」。将来、もしも録音が発見されでもしたら、大事件になるのだが。

 これは、強烈な体験でした。ウサギを飼ったこと自体も強く印象に残っているけれど、それを歌にしたことは、もっと強烈だった。なんだか、変なことをさせられちゃった、という感覚がありました。

 くすぐったいようなうれしさ、他の誰とも違う、自分だけのものを得たという感覚。そんなものを感じたように思います。(『音楽は自由にする』)

 続けて坂本は、「それと同時に、違和感もありました。ウサギという物体と、ぼくがつけた曲は、本来なんの関係もないのに、結びついてしまった。まさにそのウサギがいなければ、その音楽は生まれなかったわけですが、でも実際に手を噛まれたり、ウンコの世話をしたり、そういうふうにぼくが触れたウサギとはまったく違うものが生まれている」と述べている。もちろん当時は、これほど客観的に思考できていたわけではないと本人は断っているが、いうなればこれは「曲」と「主題」の関係性をめぐる音楽の根本問題のひとつである。坂本龍一は生まれて初めての作曲の時点で、すでにそこに潜在するジレンマやパラドックスに直感的に気づいていた。大袈裟に言うならば、ひとつの楽曲の創造主=神である作曲家の権能と欲望、そしてそこに不可避的に生起する責任の所在に、幼少期の彼はうすうす勘付いていた。

 小学校に入ると、同じ幼稚園を一緒に卒業した子どもたちとともに徳山寿子という先生のもとでピアノを学び続けた。著名な声楽家の未亡人で、日用品を楽器にして演奏する児童楽団「徳山寿子のキッチン楽団」でテレビに出演したり、作編曲の分野でも活躍した「モガ(=モダンガール)」の草分けのような存在だったという。この徳山と、当時、東ドイツ在住の叔父からヨハン・セバスチャン・バッハのことを教えられ、龍一少年は夢中になった。のちに何度も語っていることだが、左利きの彼は、右手でメロディ、左手で伴奏という普通のピアノの弾き方がしっくりこなかった。「でもバッハは、右手に出てきたメロディーが左手に移ったり、あとで形を変えてまた右手の方に出てきたりする。左右の手が常に役割を交換しながら、同等の価値を持って進行していく」(同前)。前述のように、それより以前に「作曲」はしていたわけだが、こうして坂本龍一は「作曲家」という存在に出会った。

4 ビートルズ、ドビュッシー、そして「独特の匂いを放つ」本たち

 徳山寿子は坂本龍一の才能を見抜き、彼が10歳のとき、別の先生について本格的に作曲を学ぶべきだと進言した。最初は本人だけでなく両親も乗り気ではなかったが、徳山の説得が実って龍一少年は、松本民之助に師事することになる。松本は東京芸術大学作曲科の教授を務めていたから、小学生にとってはエリート教育と言ってよいだろう。こうして龍一少年は徳山にピアノを、松本に作曲を学びながら、中学に進学する。西欧のクラシック音楽の名曲や名盤は、叔父たちのレコード・コレクションで色々と聴くことができた。坂本龍一にとって非常に重要な存在となるクロード・ドビュッシーも、叔父の部屋ではじめて聴いた。折しも時代はすでに60年代、日本でもロックが流行し始めており、龍一少年もビートルズの洗礼を受けていた。

 その頃は、作曲の勉強を始めていましたから、音を分析的に聴くことが少しはでき始めていたんだと思います。ビートルズを聴いて、ハーモニーが不思議なので、なんだなんだ、と気になって、ピアノで弾いてみる。でもそれはまだ習ってない響きで、何と呼べばいいのかわからないんです。あとでわかったことですが、それは9thの和音だった。これはまさに、ぼくがやがて出会って夢中になった、ドビュッシーの好んだ響きなんですよ、その響きにぼくは、ものすごくどきどきした。オルガスムスみたいな快感を覚えた。あまりに興奮して、日ごろ話もできなかった父をステレオの前に引っぱってきて、ビートルズのレコードを聴かせたりしました。(『音楽は自由にする』)

 幼少期の坂本龍一が音楽と音ーーこの二つが別個のカテゴリであるということを彼は早い段階でよく理解していたーーにかんする感性と認識を形成してゆくにあたって重要だったのは、まず最初がバッハ、次にビートルズ、その次がベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第3番』、そしてドビュッシーの『弦楽四重奏曲』で、その第3楽章をピアノ譜に書き起こして和声を分析したという。「それは、自分の知っているどんな音楽とも違っていました。好きだったバッハやベートーヴェンとは全然違う。ビートルズとももちろん違う。聴いたとたんに、なんだこれは、と興奮した。すっかりドビュッシーにとりつかれてしまった」。これものちに何度も語っていることだが、あまりに夢中になって、自分はドビュッシーの生まれ変わりだと思い込んだりもした。「おれはなんでこんなところに住んでいるのか、どうして日本語をしゃべっているのか、なんて思うくらい。ドビュッシーの筆跡をまねて、帳面何ページにもわたってサインの練習をしたりもした。「Claude Debussy」って」(同前)。いかにも夢見がちな少年期にありがちな微笑ましいエピソードだが、こうした過剰とも思える没入や同一化は坂本龍一の性格的な特徴のひとつである。彼は父・一亀と同じく「人やものごとに惚れ込みやすく、すぐ夢中になる」タイプだった。いわゆるマイブーム型と言ってもよいだろう。実際、音楽家になってからの坂本龍一のめまぐるしい変化変身ぶりも、コンセプチュアルな戦略というよりマイブームの連続の歴史だった。

 坂本少年は音楽ばかり聴いていたわけではなかった。彼は書物にも関心を向けた。最初に読んだ長編小説は五味川純平の『人間の條件』全6巻だった。『音楽は自由にする』には、中学2年のときにデカルトの『方法序説』を持ち歩いていたという回想がある(なかばファッションだったようだが)。父親の本棚で見つけたジョルジュ・バタイユの『マダム・エドワルダ』や『眼球譚』、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』は、少年らしいエロチックなものへの好奇心から読んだという。そして澁澤龍彦や、鮎川信夫訳のウィリアム・バロウズ『裸のランチ』が大好きだった。「こういう本たちは独特の匂いを放っていて、書棚からぼくを呼んでいるような感じがした」。このうち『マダム・エドワルダ』の最初の日本語訳(生田耕作訳)は1967年、『裸のランチ』は1965年、いずれも坂本一亀が勤務する河出書房新社から刊行されている。60年代は日本の翻訳文化が、アカデミズムから一般読者へと大きく広がっていった時期である。坂本少年に限らず、当時の早熟な若者たちは次々と訳出される海外の現代文学、前衛文学、思想書や芸術書をこぞって読みふけった。書物に限らず、輸入文化と路上/地下文化とが掛け合わされたサブカルチャーの勃興期と言ってよいだろう。そしてまた、60年代とは「政治の時代」でもあった。

5 デモとジャズと世界認識と――早熟で聡明な15歳

 坂本龍一は東京都立新宿高校に入学した。全国でもトップクラスの受験校なので中学の教師からは学力的に無理だと言われたが、それに反発して短期集中で猛勉強し、めでたく試験に合格したのだった。それまでの坂本少年の脳内世界は、音盤や書籍によってどんどん拡大していたけれども、現実の彼の世界は、ごく小さなものだった。同時代/同世代の若いミュージシャンたち、たとえばのちにイエロー・マジック・オーケストラを組むことになる細野晴臣や高橋幸宏と比べて、彼の行動範囲はかなり狭かった。坂本家は格別、裕福というわけではなかったようだが、学校の他にピアノと作曲を習い続け、それ以外は本を読むくらいが趣味という良家の子息的な生活で、要するに内向的でおとなしい少年だったということだろう。ところが、新宿にある高校に毎日通うことで、それまでの日常生活は一変する。彼自身、自分を変えたいという気持ちがあったのかもしれない。あるいは隠れていたものが露わになったということか。

 「ぼくが高校に入学したのは1967年で、その年の春には砂川で、秋には羽田で、反代々木系全学連の学生たちによる闘争がありました」。坂本龍一が高校生だった1967年から69年にかけては、60年に成立した日米安保条約が10年後の70年に自動延長されることへの反対運動が、大学生を中心に全国で最高潮に達していた時期である。坂本龍一は高校生だったが、一年生のときからデモや集会に参加していた。

 その頃から彼はジャズ喫茶に通うようにもなった。当時新宿には三十数軒ものジャズ喫茶が存在していたが、新宿高校に入学した四月のうちにその全てに行ってみたという。いかにも坂本龍一らしいエピソードである。やがて彼は「ピットイン」の、現在もあるライヴハウスではなく、新宿通り沿いにあった同名の喫茶店によく行くようになった。ジャズは小学生の時から知っていたが、本格的に聴き込むようになったのはこの頃である。「セロニアス・モンクやエリック・ドルフィーも好きでしたが、いちばん好きだったのは(ジョン)コルトレーンでした」。

 67年ですから、まさにフリー・ジャズが生まれようとしていたころです。アート・アンサンブル・オブ・シカゴとか、日本では山下洋輔とか。「ピットインに、洋輔さんの書いた「ブルー・ノート研究」という青い冊子が積んでありました。冒頭に、「小泉文夫による日本のわらべうた研究に依拠してこれを書いた」とあって、ぼくは「小泉文夫を読んでいるなんて、なかなかおもしろいジャズ・ピアニストがいるもんだ」なんて思って、すぐ買いました。(『音楽は自由にする』)

 念のため断っておくが、これは坂本龍一が15歳のときの話なのだ。彼は東京芸大の大学院で小泉文夫の講義を受けることになるが、この時点ですでにその著作を読んでいたわけである。なんと早熟な少年だったことか。

 新宿高校で坂本龍一は親友二人と「3バカトリオ」を結成(?)する。現在は政治家の塩崎恭久とカメラマン/ジャーナリストの馬場賢治である。塩崎は中学校から同じ学校で、坂本龍一の一学年上、ブラスバンド部の先輩だった(塩崎とは小学校も同じだったが、その頃は面識がなかった)。ブラバンで坂本龍一はチューバを吹いていたが、目立たない楽器なのでいやだったという。塩崎が高校二年のときに一年間アメリカに留学したので、同級生になった。三人はいつもつるんで行動していたという。

 『文藝春秋』2023年6月号に「革命同志・坂本龍一を偲ぶ」と題された塩崎と馬場の対談が掲載されている。親友二人から見た高校時代の坂本龍一の姿を、哀悼の意とともに鮮やかに伝える好記事である。二つだけ発言を引いておこう。

馬場 僕が坂本君と会ったのは高校二年のとき。カバンに「ベトナム戦争反対」と書いているのを見た坂本君が、学生運動のビラを持って話しかけてきた。それから会うたびにめんどくさい話ばかりしてくるんだ。「ヘーゲルは読んだか。まずは弁証法から勉強しろよ」「カントは読んだか」とか。吉本隆明や丸山眞男などについて議論していた。

塩崎 (前略)とにかく坂本君は早熟だったね。六八年の五月にパリで大学生が暴動を起こした五月革命があったけど、坂本君はそれに反応していたな。国内だけじゃなく、世界の新しい動きに当時から非常に敏感だった。

 こうしてみると、15、6歳の時点で、「坂本龍一」という人間は、ほぼ完成していたのではないかとも思えてくる。彼は明らかに早熟で聡明だったが、それゆえに世界に対する鋭敏な問題意識と批判精神を育み、それゆえに同時に世界を舐めてもいた(それこそが早熟と聡明の証明だから)。ジャズ喫茶に入りびたり、デモに参加しつつ、彼は作曲の勉強も続けていた。あるとき坂本龍一は新宿高校の先輩でもある作曲家の池辺晋一郎を訪ね、自作曲をピアノで弾いてみせたところ、「芸大の作曲科、いま受けても受かるよ」と言われ有頂天になる。「世の中けっこう甘いぜ!」と思ったという。実際、彼は東京芸大にストレートで入学を果たすことになる。1970年のことである。

 ピアノを習い始めたときも、幼稚園の友だちとそのお母さんたちに背中を押されてなんとなく始めた、という感じで、特別なモチベーションがあったわけではない。「ウサちゃんのうた」にしても、作りたいと思って作ったわけではなかった。「ウサちゃんについての音楽を作るほどの、内発的なエモーションやパッションはありません!」とか言って拒絶できるほどの言語的な能力がなかったから、とりあえず作ってしまったというだけのことで。

 では、大きくなってからは音楽に対する特別なモチベーションが生まれてきたのかというと、実はそうでもなくて、大学に入ってからも、音楽以外のものをやったっていいんじゃないかと思っていた。その気になったら、映画を撮るかもしれないし、小説を書くかもしれない。音楽をやることが自分の使命だ、というようなことは、全く思ったことがなかった。まあ、若い者らしい高慢ちきな態度ですが。(『音楽は自由にする』)

6 「坂本龍一」という現実態とは別の自分

 だが結局、坂本龍一はその後、何本かの映画に出演し、何本もの映画音楽を手がけることになっても、自分で映画を撮ることはなかったし、小説家の友人は何人もできたが、自ら小説を書くことはなかった。彼は音楽を、表現と創造という意味ではただ音楽だけを、ひたすらにやり続けた。とはいえ、もしかしたら「音楽以外のものをやったっていいんじゃないか」という感覚、「音楽をやることが自分の使命」というわけでは必ずしもないのではないかという微かな疑いのようなものを、彼はどこかでずっと抱き続けていたのではないかと私は思う。そしてそれは彼が強い確信と固い意志をもって音楽家であり続けたことと、なんら矛盾しない。

 坂本龍一とはちょうど五十歳違い(1902年生まれ)の批評家・小林秀雄のデビュー作に、以下の極めて有名な一節がある。

 人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚く可き事実である。この事実を還元すれば、人は種々な真実を発見する事は出来るが、発見した真実をすべて所有する事は出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一つあるのみだという事である。雲が雨を作り雨が雲を作る様に、環境は人を作り人は環境を作る、かく言わば弁証法的に統一された事実に、世の所謂宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。或る人の真の性格といい、芸術家の独創性といい又異ったものを指すのではないのである。この人間存在の厳然たる真実は、あらゆる最上芸術家は身を以って制作するという単純な強力な一理由によって、彼の作品に移入され、彼の作品の性格を拵えている。(「様々なる意匠」)

 「彼は彼以外のものにはなれなかった」。これは確かに驚くべき、だが誰にも(私にも)当てはまる、ごく平凡な事実である。だがしかし、自らをドビュッシーの生まれ変わりだと思い込んだエピソードからもわかるように、坂本龍一の頭の中には「坂本龍一」ではない自分という不可能な可能態、、、、、、、が常に潜在していたと私は思う。世界的に有名になって以降も、おそらく最期まで、坂本さんの内には「教授」以外の彼という反実仮想が存在していた。

 だが今はまだ70年代の半ば、彼は「教授」と呼ばれてさえいない。

*7月21日 一部内容を修正しました。

(この章つづく)

 

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