ちくまプリマー新書

なぜ今新聞か
齋藤孝『新聞力』はじめに

10月刊行の齋藤孝著『新聞力ーできる人はこう読んでいる』(ちくまプリマー新書)の「はじめに」を掲載します。

 2016年に選挙権が18歳に引き下げられ、国政選挙で実際に18歳の高校3年生が投票しました。
 今、高校では「主権者教育」が進められています。新聞を活用する力、すなわち「新聞力」は、この主権者としての力をつけるのに柱となるものです。新聞を活用して「総合的な判断力」を身につけることが、今求められています。
 こうした新しい状況をふまえて「新聞力」をテーマにお話しさせていただきます。
 みなさんはネットやスマホを使いこなす時代に生まれていますから、なぜ今、新聞なのか、不思議に思うかもしれませんね。
 でも新聞にはみなさんが知らない力が隠されているのです。
 みなさんが憧れるような人や世の中で成功している人、社会の役に立つ仕事をしている人はたいてい新聞を読んでいます。
 なぜなら新聞にはニュースをはじめ、たくさんの情報がつまっているからです。社会のニュースというのは、言ってみれば世界で通用する貨幣のようなものです。たとえばみなさんは8年前に起きたリーマン・ショックという出来事を覚えていますか?
 アメリカの大手証券会社リーマン・ブラザーズが突然倒産、世界経済が大打撃を受け、日本でも株が下がったり、企業が倒産したり、しばらく大変なことになりました。
 このリーマン・ショックについて、新聞を読んでいた人はある程度語ることができます。でも新聞を読んでいないと、何も話すことができません。
「あれも知らない」「これも知らない」では、人ときちんと向き合って、大事な話をすることができません。どの世界にも、〝情報弱者?といわれる人たちはたくさんいます。
 世の中で何が起きているかわからず、社会から取り残されてしまう人たちです。
 取り残されるとは、つまり損をするということにほかなりません。
 新聞はそうした〝情報弱者?になることから、私たちを救い出してくれるのです。
 新聞を読むのは、毎朝、毎晩のことです。単純に計算すると1年で365日×朝・夕の2回=730回、新聞を読むことになります。
 1年で730回新聞に目を通す人と、まったく読まない0回の人がいて、これが毎日積み重なっていくと、10年で片方は7300回、もう一方はずっと0のままです。
 この差は大きい。毎日必ず新聞を読み、さまざまな情報に接することは、その人の人生や考え方、ひいては社会的な活躍に必ず影響してくるのです。
 この本では新聞を読むことで身につく力、効果的な新聞の読み方、活用のしかたについて、コンパクトにまとめてみました。
 本題に入る前に、ちょっと私自身のことをお話ししましょう。
 幼い頃から記憶に残っている限り、私の家にはいつも新聞がありました。昔は私の家だけでなく、どの家でも新聞があるのが当たり前だったんです。
 学校で先生が「家から新聞を持ってきてください」と言うと、クラス全員が持ってきました。今、学校で先生がそう言ったら、いったい何人の人が持ってこられるでしょう。
 それほど豊かでない家でも、新聞だけは取っていた。そういう時代だったんですね。
 しかも私の家では、父が会社を経営していたので、5紙も新聞を取っていました。5紙! それだけ取っていますと、新聞は朝刊、夕刊が来ますので、さすがにすごい量になってしまいます。
 ですから父はつねに新聞を読んでいました。朝、起きては新聞を読み、夜家に帰ってくると、食事をしたり、お酒を飲んだりしながらずうっと新聞を読んでいる。それが当たり前の風景だったので、子どもたちもごくふつうに新聞を読むようになりました。
 私も「朝日小学生新聞」を取ってもらって、毎日父の横で新聞を広げて、いっちょまえに新聞を読んでいたものです。
 大学進学のために静岡から東京に出てきて、ひとり暮らしをするようになったとき、私が一番最初にやったのも新聞を取ることでした。私のまわりのひとり暮らしの学生たちをみてもたいていの人は新聞を取っていました。新聞はいわば空気みたいな存在、あるのが当たり前だったんですね。
 だから新聞の休刊日にはちょっとガックリしました。私は講演会で新聞購読世代調査をやっているのですが、新聞が来ないとガックリする人の割合は70歳以上ですと9割にのぼります。でも大学生に聞いてみると、そういう経験がある人が5%以下です。
  すごい差ですね。新聞を当たり前のこととしてとらえ、朝ごはんを食べるように読んでいた世代から、それをほぼまったく読まない世代へと移り変わってしまったんですから。ここはすごく大きな変化だと私は感じています。
 もちろんいい変化ではなくて、悪い変化ですよ。若い人たちの間で、新聞を通じて得られるはずの社会意識や常識が低下してしまったのです。
 しかも日本語力も低下してしまった。これはゆゆしき問題です。
 新聞というのは、いわば実用日本語のお手本みたいなものです。2日分の朝・夕刊をまるまる読むとどれくらいの文章量になるかわかりますか? だいたい薄い新書1冊分くらいの分量になるのです。
 かつてはそれぐらいの分量を平気で読む人が9割以上いたわけです。だからこの人たちの日本語力は基本的にしっかりしています。
 また新聞にしっかり目を通しているから、社会についてだいたいのことは知っている。これはとても大事なことなんですね。
 たとえば、日本の野球が世界的に見てわりと強いのは、ほとんどの人が野球のルールを知っているからです。あるいは日本ではゲーテやドストエフスキーの作品が好まれましたが、これらは難解なので、世界のあらゆるところで読まれているわけではありません。でも日本ではたくさん読まれています。
 みんなが新聞を読んでいたので、活字を読むことに慣れていて、日本語の理解力もあったし、それだけの知識や教養も知らず知らずのうちに身についていたんですね。
 みんながある程度の基準を共有し、押し上げていけば、その国の文化は繁栄します。戦後、奇跡といわれた日本の繁栄や、世界が感嘆する日本の公共心の高さが新聞の普及率と無縁ではなかったと私は思っています。
 新聞大国・日本を支えてきたのは新聞宅配制度です。外国では新聞は駅などで買うことが多いのですが、日本では、新聞配達の人たちが朝夕、新聞を届けてくれます。この宅配制度が日本人のレベルを上げてくれていたのです。
 雨の日も、風の日も、雪の日も、新聞を届けてくれている人たちに感謝するところから、この本を始めたいと思います。
「ありがとう! 新聞配達のみなさん!」

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